五蘊が夢のように虚妄で実体がないことをどう認識し理解すればよいでしょうか。
これは色身と識心の二つの部分から認識し観行する必要があります。色身は絶えず生滅変化する木のような肉体であり、もし識心が色身で作用しなければ、色身にはいかなる活動や機能もありません。色身で作用する前七識は絶えず生じては滅し、滅しては生じ、生滅を繰り返す様は火の輪のようです。七識は実在ではなく、如来蔵が一つひとつ識心の種子を送り届けて初めて七識は作用します。如来蔵が種子を送らなければ七識は作用せず、五蘊の機能もなくなり、五蘊身は単なる木の塊となります。一つの全体としての五蘊身は組み合わさったものであり、色・受・想・行・識によって構成されており実在せず、一つの要素が欠けても不完全です。様々な因縁によって集まった生命体は虚妄の法であり、しかも今この瞬間にすでに虚妄であって、わざわざ虚妄だと考える必要はありません。
いかなる刹那の五蘊活動においても、阿頼耶識が識の種子を送らなければ、五蘊活動は即座に停止し、生命の兆候はなくなります。色身はこのように虚妄なのです。五蘊身はあたかもロボットのようなもので、阿頼耶識によって制御されています。種子の倉庫に原材料が途切れることなく供給されなければ、機械は停止します。もし意根という電源スイッチが作動しなければ、原材料は色身に運ばれず、五蘊身は依然として機能しません。このように虚妄な色身には一片の真実性もなく、現象として存在しているのは、ただ人を惑わし心を迷わせるに過ぎません。これらの生滅する幻のような相を、凡夫も菩薩たちも未練があって捨てがたいながら、同様に手に入れることもできず、あたかも夢の中の幻影のようです。我相・人相・衆生相・寿者相というこの四相も同様に実体ある相貌がなく、夢の中の物のようです。現実の生活と夢は同じであり、実在する私という人もいなければ、あなたという人もいない。彼もおらず、衆生もおらず、寿命もない。これらはすべて虚妄の仮の相であり、心の内から真に認め証得すれば、それは証果となります。なぜいわゆる現実の生活と夢が同じなのか。この理を証得するには、十回向位の菩薩の果位にまで修行を進めなければなりません。
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