悟りは幾何学の証明問題に似ています。教師が一つの問題を出します。これが結論であり、中間の演算と推論による証明過程が必要です。過程が正しく、推論が厳密で、論理に適い、論拠が十分であれば、自然に命題と一致する結論が導かれます。中間の演算推論、すなわち証明過程こそが、学生の知能と知識レベルを示すものであり、この過程から導き出された結果が命題に合致すれば、その問題の証明は完了し、成績は合格、あるいは満点が与えられます。導出過程が厳密でなく、大雑把で穴がある場合、自然に命題と一致する結論に至らず、命題の真実性・正当性を証明できないまま、無理にその結論を出せば、成績は不合格となります。結論は既にそこにあり、教師が与えたもので、学生自身の智慧の証量(悟りの境地)に属するものではありません。過程こそが学生の知能と知識レベルを示すのです。
同様に、仏法においてある仏陀が与えた結論を証明するのもこれと同じです。例えば、仏陀が衆生に「五蘊は苦・空・無常・無我である」と説きます。これが結論です。弟子たちは自ら深く細やかに思惟し観行(観察と実践)を経て、初めて仏陀の聖言量(仏の言葉の権威)と一致する結論に至らなければなりません。そして、思惟観行の過程において、その内容が詳細であるかどうか、観行が論理に適っているかどうか、十分に問題を説明できるかどうか、意根(末那識、深層の自我意識)に確認させられるかどうか、これが極めて重要なのです。
仏陀が与えた結論を、私たちが繰り返し唱えること、たとえ百回繰り返したとしても、それで自分が悟ったことを意味するわけではありません。たとえ一億回繰り返しても、中間の思惟証明過程がなければ、それは単なる鸚鵡返しに過ぎず、智慧の顕現がなく、智慧の証量がないため、悟りとは言えません。
大乗仏教の方面も同様です。仏陀の一言一句はすべて結論であり、命題です。私たち一人一人の弟子が、禅定の中で細心の注意を払い思惟参究(思索探究)して、それを証明しなければなりません。参究思惟の過程こそが、それぞれの人の智慧の証量を表します。過程がなく結果だけがあるなら、それは仏陀の聖言量を剽窃したものであり、悟った者ではありません。
さらに例を挙げれば、仏陀が衆生に「色身(物質的身体)は苦であって我ではない」と説きます。これは一つの結論であり、真理とも呼ばれます。ならば弟子たちは、禅定の中で観行思惟し、色身がどのようにして苦であるのかを究明すべきです。「どのように」という二文字の中には、非常に広範な内容が含まれており、弟子たちはその広範な内容をすべて見つけ出し、それを総合的に思惟整理して、色身の苦なる性質を証明しなければなりません。次に、なぜ苦であるものは我ではないのかを思惟します。「なぜ」という三文字の中には無数の内容があり、弟子たちはそれらを収集し、すべて見つけ出し、さらに思惟整理を加えて、苦である色身が確かに我ではないことを証明しなければなりません。こうして証明した後、五蘊無我の観行は一つの小さな区切りを迎え、残る四蘊も同様に観行思惟しなければなりません。
観行思惟参究の過程においては、必ず自らに「なぜか」と何度も問いかけ、その後で「結局なぜなのか」を答え、すべての問題を解決しなければなりません。それを他の人に残してはならず、ましてや仏陀に解答を委ねることはできません。誰が解答を出せるかが、誰が智慧を増長するかであり、誰に智慧の証量があるかを示します。そして、「なぜか」と問えることもまた智慧を表します。智慧がなければ疑問も生じず、合理的な問題、合理的な「なぜ」は、まさに一人の智慧を表し、そうして正しく理に適い誤りのない解答は、当然ながら一人の大いなる智慧の体現なのです。この智慧が一旦顕現し、導き出された結論が仏陀の結論と教えに符合すれば、それがすなわち悟りを得たということです。
世俗の世界には「十万のなぜ」がありますが、私たち仏教を学び修行する者は、出会うどんな法に対しても、常に「なぜか」と問いかけ、一つの問題を究明し尽くし、水が澄んで底が見えるように明らかにすれば、必ず智慧が生まれ出るでしょう。そして、毎日口の中でぶつぶつと仏語を唱えることは、自分の智慧や証量を表すものではありません。例えば、口の中で「一切の法は真如であり、すべて一真法界の中にある」と唱え続けても、その中間に思惟観行の要素がなく、なぜそうなのかが全く分からなければ、一万年唱えても何の役に立つでしょうか? 仏法はこのように修めるものではありません。仏法は証明を必要とするものであり、非常に多くの証拠を必要とします。これらの証拠は、禅定における思惟観行の中で得られなければなりません。「なぜか」と多く問いかければ、積極的に証拠を探し求めることができ、いつか必ず、証拠が確実となり、意識も意根も開眼し、豁然として明るくなり、頓然大悟(突然の大悟)に至るでしょう。
2
+1