外根が外塵に触れ、内根が内塵に触れる。内外の根が関連しているだけでなく、内外の塵も関連しており、さらには内外の識もすべて関連している。六識が内塵に触れ、内塵において造作するとき、外塵は変化するだろうか。もし変化するならば、外塵が先に変化するのか、それとも内塵が先に変化するのか。
仔細に思惟観行すると、意根は内塵において主体として推動作用を起こすと同時に、外塵においても主体として推動作用を起こすことが分かる。これは意根が内識であると同時に外識でもあることを証明している。
手で本を持ち去った後、外塵の本はもはや元の場所になく、他人には見えなくなり、自身の内塵の本の位置も変化する。外塵の変化はもちろん意根が主体となって起こすものであり、内塵の変化も意根が主体となって起こすものである。例えば、パンを口に入れて胃に届けるのは、明らかに意根が主体となって食べる行為であり、内塵は粉砕されて胃に入る。外塵が口の外で消失するのも、意根が主体となって消失させるからである。意根が主体となって推動作用を起こさなければ、内外の塵は短時間では変化しない。
内塵は永遠に外塵に依存して生じ存在する。外塵がなければ内塵はなく、まず外塵があり、その後で内塵が生じる。独影境は例外であり、外塵に依存せずに存在するため、独影境は非常に活発で不安定であり、変幻自在で、意識はほとんどの場合把握できず、制御できない。なぜ制御できないのか。意識には意根を降伏させる能力がなく、意根を制御する能力がないからである。
内塵が外塵に依存して存在する以上、塵境の変化は必ず外塵が先に変化し、内塵がそれに続いて変化する。その変化はほぼ同時に起こる。もし外塵を変化させれば、同時に関連する衆生の外塵も変化し、関連する衆生の内相分も変化する。もしこの変化が他人に許されないものであれば、他人の関連する利益を侵害することになる。
例えば、公共の財産を損壊すれば、各自の外塵と内塵がともに変化し、他人がそれを許さなければ、他人の利益を侵害することになる。他人の色身を毀損・変化させることは、自身の内外相分を変化させるだけでなく、他人の内外相分も変化させ、他人はそれによって損害を受け怒り、あるいは利益を得て喜ぶ。もし自身の色身を毀損すれば、自身の内外塵を変化させるだけでなく、他人の内外塵も変化させ、自身の親族もそれを許さず苦しむ。
もし自身の内塵だけを変化させ、他人の内外塵に関わらなければ、それは他人とは無関係である。独影境だけが完全に自身に属するものであり、他人の内外塵に関わらない。いかなる方法で変化させても、他人はそれを知らない。例えば、仏像を観想して念仏三昧を成就し、十方諸仏が目前に立つが、他の者はこの情景を見ることができない。極楽世界が眼前に現れるほど念じても、他人は同様に見ることはできない。もし見えるならば、他人も同時に念仏三昧の功徳を成就したことになる。そうであれば、一人が修行すれば、すべての衆生がその恩恵にあずかって成就できることになる。
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