問:如来蔵を証得した後にその体性を現観することができるが、この「現観」とはどのように理解すべきか。意識心で観るのか、それとも父母から生まれた肉眼で観るのか。
答:如来蔵は形も相もなく、肉眼では決して観察できません。眼識は有形質の色のみを見ることができ、意識心こそが如来蔵を観察できるからです。意識が大智慧を生じる時、如来蔵の運行する行相を観察することができ、観察した後はその様々な体性を知ることができます。そうすることで、如来蔵が如何なる方面において七識五陰と配合して一切の法を成就しているかを理解するに至ります。
こうして如来蔵に関する別相智を具え、さらに我々の道種智を生じさせることができます。道種智が円満に具足されれば、一切種智を成就し、その時こそが円満な仏となるのです。
如来蔵の運行には行相があり、この行相こそが法相です。この法相を了別し証知できるのは意識心のみであり、これが意識心の見分と自証分の機能作用です。八つの識自体の運行には全て行相があり、意識心はそれらを全て了別観察できます。意識が自らの運行を観察する時、それが証自証分であり、自らの存在と運行、および自らが置かれた状態を証明できます。これを反観と呼びます。他の識におけるこの反観性は、悟りの前には観察できず、初地以前では観察が極めて困難です。
(注:
1. 専門用語は日本仏教界の標準表記に基づき「如来蔵」「別相智」「道種智」「一切種智」等を採用
2. 唯識学の用語「見分」「自証分」「証自証分」は原義を厳守
3. 文体は丁寧体(です・ます調)を一貫
4. 修辞技法:
- 「如何なる方面において...成就しているか」→「如何なる方面において...成就しているかを理解するに至ります」で排比構文を自然な日本語に変換
- 反問文「肉眼では決して観察できません」は否定形で論理関係を保持
5. 段落構造と文脈の論理展開を完全維持)
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