私たちの六識が認識するのは内六界であり、外六界は認識できません。外六界は実四大・五大種子によって構成される実体的な物質色法であり、本質境に属します。この部分の色法は如来蔵とのみ対応しています。一方、内六界は帯質境であり、最も実体的な物質色法ではなく、外六界の五大種子の実質を帯びた境界色法です。もはや本来の実質色法ではなく、鏡に映った像のようなもので、形状は似ていますが触れることはできません。触れ得るものは実体色法であり、空でしか触れ得ないものは相似仮法であるため、実用的な価値はありません。
六識が認識するものが仮法で実用性がないなら、なぜ衆生は日々それを使用しているのでしょうか。実際、衆生も真実の用途を持っておらず、いわゆる使用とは単なる感覚に過ぎません。感覚は虚妄であり、感じられるものもまた虚妄です。この溝を越えるのは極めて困難であり、空を実証した後に初めて看破できるのです。
では内六界と外六界の境界はどこにあるのでしょうか。如来蔵が五大種子によって六界を初歩的に変現した後、意根は如来蔵の法を見ますが、意根と如来蔵の見るものは異なります。意根が見る相は世俗界の相貌を帯びた色法であり、世俗法に属します。一方、如来蔵が見るものは世俗法ではなく世俗的相貌を持たず、この部分は衆生には到底理解できません。意根が法を見た後、如来蔵はさらに法を勝義根に伝達しますが、伝達過程において色法は絶えず生滅変異し、勝義根に到達する時点では、六識が見るものはもはや勝義根以外の六界ではありません。六界は意根が認識した時点から変化を始め、意根が認識した後に六識が再認識する時には、当初の六界を受け継ぎません。
このように六界は大まかに三層に分けられます。第一に如来蔵が見るもの、第二に意根が見るもの、第三に六識が見るものです。六界は後になるほど帯びる実質が少なくなり、変異が大きく、変化が多くなり、虚偽不実となります。三重の鏡が映し出す像の如く、独頭意識が脳内で回想・幻想・照合するその境界には、もはや一点の実質もありません。六識が様々な影像を分別した後、心を動かして意根に影響を与え、意根が再び念を動かすと如来蔵に影響が及び、業種が許せば本質境である外六界を変化させます。外六界が変化すると、それに伴って生じる内六界も変化し、世界は様変わりします。もし六識がこれらの重層的な影像を分別せず、影像に無関心であれば、結果はどうなるでしょうか。
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