衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年03月27日    土曜日     第3開示 合計3236開示

内六界と外六界の区別と境界

私たちの六識が見るものはすべて内六界であり、外六界は見ることができません。外六界は実四大・五大種子によって構成される実体のある物質色法であり、本質境です。この部分の色法は如来蔵とのみ対応しています。一方、内六界は帯質境であり、最も実体ある物質色法ではなく、外六界の五大種子の実質を帯びた境界色法です。すでに本来の実質色法ではなく、鏡に映る像のように、形は似ていますが触れることはできません。触れることができるのは実体色法であり、ただ空で触れることができないのは相似仮法であり、したがって実用性はありません。

六識が見るものが仮法であり実用性がないなら、なぜ衆生は毎日それを使っているのでしょうか。実際、衆生も真実の用途を持っておらず、いわゆる用途は単なる感覚に過ぎません。感覚は幻であり、感じられるものもまた幻です。この溝は越えるのが非常に難しく、空を実証して初めて見抜くことができるのです。

では、内六界と外六界の境界はどこにあるのでしょうか。如来蔵が五大種子によって六界を初めて変生した後、意根は如来蔵に依って法を見ますが、意根と如来蔵の見るものは異なります。意根が見る相は世俗界の相貌を帯びた色法であり、世俗法に属します。一方、如来蔵が見るものは世俗法ではなく世俗相貌がなく、この部分は衆生には全く理解できません。意根が法を見た後、如来蔵はさらに法を勝義根に伝達しますが、伝達過程において色法は絶えず生滅変異し、勝義根に到達するまでに、六識が見るものはもはや勝義根の外の六界ではありません。六界は意根が見た時点から変化し始め、意根が見た後に六識が再び見るときには、当初の六界のままではありません。

このように、六界は大まかに三つの層に分けられます。第一に如来蔵が見るもの、第二に意根が見るもの、第三に六識が見るものです。六界は後になるほど帯びる実質が少なくなり、変異が大きく、変化が多くなり、より虚偽で不実となります。まるで三重の鏡に映し出されたかのようであり、独頭意識がさらに脳裏で回想・幻想・比対すると、その境界は一点の実質も帯びなくなります。六識が種々の影像を分別した後、起心动念が意根に影響を与え、意根がさらに念を動かすと如来蔵に影響を及ぼします。もし業種が許せば、本質境である外六界が変化し、それに伴って生じる内六界も変化し、世界は様変わりします。もし六識がこれらの重なる影像を分別せず、影像に無関心であるなら、結果はどうなるでしょうか。

——生如法師の開示
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初果を未だ証得していない者が、他人に仏法を紹介し解説することはできるのでしょうか

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