研究は、意識心の範囲における作業であり、情識分別に似ています。実際のところ、仏法の修証は決して研究を行うことではありません。かつて禅宗の祖師たちも最も意識分別による推量を忌み嫌いましたが、今ではすでに公然と意識分別による推量が行われ、堂々と分別を弄し情識にふけるばかりで、ひたすら真実の修行に専念することがありません。仏教が次第に変質していく様子を見るにつけ、どうしようもないことです。
世俗の生活リズムが速くなり、ファストフードが流行し、人々の身体を不健康にしています。仏教もまた潮流に順応して手軽な修行を提供し、思想は不健全となり、病んだ状態を呈しているのに自覚がなく、むしろ病的な状態を美しいものとして顕示しています。仏教の簡便化は大衆の浮ついた心から生じたもので、その結果はさらに心の浮つきを増幅させ、口先だけの言葉が非常に多くなりました。
(注:核心仏教用語の対応) - 情思意解 → 情識分別(じょうしきふんべつ) - 意下卜度 → 意識分別(いしきふんべつ) - 做功夫 → 修行に専念する(しゅぎょうにせんねんする) - 修证 → 修証(しゅしょう) - 禅宗祖师 → 禅宗の祖師(ぜんしゅうのそし) - 佛法 → 仏法(ぶっぽう)
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