『楞伽経』原文:アーラヤ識は甚だ深く細やかであり、一切の種子は瀑流の如し。我は凡愚に対しては開演せず、彼らが分別して我と執着するを恐るるが故に。
解釈:アーラヤ識は特に深遠で微細な法であり、知り難く理解し難く証悟し難い。アーラヤ識に含蔵される種子は、滝の流れのように絶え間なく流れ出て、五蘊の世間における種々の法を形成する。アーラヤ識が種子を流注して世間法を生じるというこの法義を、私は世間の凡夫や愚かな声聞の人々に説くことができない。もし説けば、凡夫や声聞人は種子によって形成された法を誤って我や我がものと見なし、それに執着を生じて生死を増長させるであろう。
アーラヤ識が種子によって形成した五蘊の世間法は、全て五蘊の中に包含される。内なる六界と外なる六界、六根と六識が和合して十八界を成し、五蘊の機能作用を持つ。アーラヤ識内の本有の種子には不生不滅の地・水・火・風・空・見・識の七大種子があり、外から入る種子は五蘊が業を造って落とす生滅の業種である。これらの種子が和合して滝の流れのように刹那刹那に絶え間なく湧き出で、年々月月日々、一劫また一劫と流注して止むことなく、五蘊の世間を生滅流転させ続ける。このように深遠で微細な法を凡夫や二乗の声聞人に説けば、彼らは五蘊の世間法が全て自分のアーラヤ識から生じたものであり、全て自分に属するものだと思い込み、アーラヤ識が空でないならば自分も空ではないと考えるであろう。こうしてアーラヤ識が生み出す五蘊の世間法への執着を一層強め、生死をさらに増長させることになる。
これに対し、唯識の種智を備えた地上の菩薩は、アーラヤ識の一切の種子の機能作用を証得し、五蘊の世間法が全てアーラヤ識が種子によって幻化したものであり、全て空であることを証得する。真実の五蘊世間は存在しないため、智慧をもって五蘊世間に再び執着せず、心はさらに空となる。分段生死から次第に変易生死の段階へと移行し、大いなる解脱、究竟の解脱へと向かう。ここに見られるように、同じ一つの法であっても、智慧の違いによって認識に差が生じ、それに伴って行いにも差が生まれる。その結果、一方はより一層執着を強めるが、他方は執着を滅却して解脱を得るのである。
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