衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年07月01日    日曜日     第1開示 合計698開示

実修実証とは何ですか

以下是根据要求完成的日文翻译:

真如実観の初歩的な修行は、すなわち真如三昧の修行であり、一切の法がことごとく真如であると観じます。このような修行では相似の空の三昧境地を得るにすぎず、あるいは様々な禅定の境地を得ることはあっても、真の空三昧の智慧の境地を証得することはまだできません。真の空三昧の境地を証得しようとするならば、禅定の中でさらに仔細に真如の自性を参究し、その所在を見出し、その具体的な作用を観察してこそ、真の真如三昧を証得できるのです。

私たちが法を学ぶには、相似の法と真実の法を弁別する智慧、解悟と証悟の法の違いを弁別する智慧が必要です。解悟の方法を証悟の方法と見なしてはならず、修定の方法を参禅の方法と見なしてはなりません。浅い次元での理解に満足することなく、深く心を起こして究竟の義を探究する努力を惜しみ、ましてや少し得て足れりとすることなく、大心の菩薩となるよう努めなければなりません。実修の功夫がなければ、口先だけの言葉遊びに終わり、解脱の功徳と受用は得られません。解脱の味を嘗めた者こそ、心の解脱がいかに洒脱で自在であるかを知り、世のいかなる珍奇な物をも代えがたいと悟るのです。

いわゆる実修とは、もし禅定の修行を含まなければ、禅定を修めないならば、いかにして実を結ぶことがありましょうか。禅定がない状況、あるいは定が非常に浅い状況では、慧を得ることは可能ですが、この種の慧は理解の次元の慧にすぎず、実証上の智慧を得ることは不可能です。理解の次元の慧は、意識心が法を理解する段階に留まり、禅宗でいう「情思意解」「意識卜度」に過ぎません。その義が何であるか、なぜそうなのかを究めず、ただ結果だけを知り、証明の過程を伴いません。

そして実証とは証明の過程そのものであり、導き出された結論が既定の答えに合致することです。この答えは仏陀が示したものであり、証明の過程は各人が実修観行する過程です。禅定がなければ、いかにして観行できましょうか。いかにして智慧を生じさせましょうか。解脱は智慧にあり、成仏は智慧にあるとはいえ、禅定がなければいかにして真の智慧を生じさせることができましょうか。ある修行者は、最後の慧だけを求め、定を求めず、食事で最後の一枚の餅だけに興味を持ち、前の餅は食べようとしません。禅定を伴わない慧は、まさにその最後の一枚の餅のようなもので、食べ物を口にしても空腹は満たされず、空腹のまま高論を唱えるに等しいのです。

智慧が不足する者は往々にして他人の高論、他人の高調を好み、その腹中に真のものが存在するかどうかを弁別できません。このようにして自らの道業を遅らせやすいのです。すべての法を理解することがすなわち証得したことだと思い込み、智慧を得たと思い、解脱できると思い込むのですが、実際にはまだ程遠いのです。

一切の法を証明する過程では、必ず末那識(意根)が自ら参与します。末那識が確かな結果を知ろうとするなら、必ず事実の真相を知らなければなりません。末那識が事実の真相を知ろうとするなら、必ず証拠が必要です。この証拠の獲得は苦労の伴う過程であり、意識が広く深く細やかに証拠を収集する努力を要するだけでなく、末那識も深い疑情を起こして共に証拠を探し、共に証明し、かつ意識が収集した証拠を確認しなければなりません。この過程は非常に容易ならざるものであり、意識のように軽々と随意にある法を認めるようなものではありません。

末那識がそれを見出せば、従来の知識は覆されます。そこで末那識は触発され震撼し、身心の覚受は非常に強烈なものとなります。この過程なくして実修実証を語ってはなりません。禅定を離れては、この過程は全く完成できず、実修実証も語るべくもなく、それは単なる高談闊論に過ぎません。

一切の法の結果については、仏陀がほとんど答えを示されています。例えば「夢の如し」「幻の如し」「水中の月の如し」「鏡中の像の如し」「陽炎の如し」など、これらはすべて仏陀が示された答えです。答えを知っていることが何の不思議がありましょうか。証明の過程こそが各人の真の智慧を示すのです。問うこと三つ知らぬ解慧は、少し賢い者なら誰でも得られ、何ら珍しいことではありません。

未悟の凡夫は、聡明で理解力が強く、知識が広博で、文才弁舌に優れているため、時間をかければ数万字に及ぶ一切法が夢の如く幻の如しという論述を書くことができます。しかしこれらの論述に、どこに観行の痕跡がありましょうか。どこに実証の痕跡がありましょうか。どこに証明の過程がありましょうか。にもかかわらず、ある人々はこうしたものを好み、日を継いで暗唱しますが、たとえ五車の書に学んでも何の役に立つというのでしょうか。

——生如法師の開示
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