衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年07月02日    月曜日     第3 回の開示 合計702回の開示

いかにして主人公を見つけるか

悟りとは本来の姿を悟ることであり、本来の姿とは禅師たちが常に説く主人公、つまり自性清浄心そのものである。かつて禅師たちは参禅に訪れる修行者に「主有りや、主無しや」と問うた。これは「主人公を見出したか、まだ見出していないか」を意味する。ここから我々は知る——主人公は必ず存在し、実在するものであり、虚構の仮名詞でも空無の概念でもない。実体を有するが形相を持たない。だから我々は心を空っぽにしようとする必要はなく、本来の面目に相応しようとする必要もない。なぜなら覚知心は如何に空を追求しても妄であり、永遠に真実の心には成り得ないからである。

全ての衆生は各自本来の面目を具えている。その姿や本質は、禅の修行によってのみ明らかになる。六祖が悟りを開いた時に言ったように「何ぞ期らんや、自性は本より具足す。何ぞ期らんや、自性は万法を生ず。何ぞ期らんや、自性は本より清浄なり。何ぞ期らんや、自性は本より生滅せず。何ぞ期らんや、自性は本より動揺せず」という五つの「何期」がある。これは主人公を見出した後、智慧が顕現し、世間と出世間の真実を証得した真理である。

もし禅定を修めて意識心を安詳な状態に置き、あるいは無念の状態で空無を見、あるいは「今この瞬間が虚妄であり空である」と見做してそれを悟りとするなら、六祖が説いた五つの「何期」の自性はどう解釈されるのか。どうして自性が万法を生じることを知り得ようか。どうして自性が五蘊十八界を生じ出すことを理解できようか。これらの悟りの内容が、どうして六祖の悟りと異なるのであろうか。

『維摩経』に「菩薩が足を挙げ下ろすことすべてが道場より来る」とある。もし自性を悟ったなら、この言葉の真意を理解すべきである。理解できなければ、真の悟りではない。自性を悟ったなら、禅宗の公案もある程度理解でき、般若経典も読み解けるはずである。この時こそ、仏が経典を通じて我々の本来の面目を明示しておられたことに気付くべきである。もしそうでなければ、悟りの方向が誤っている。速やかに方向を転換し、参禅の目標と着手処を再考すべきである。そうしてこそ、自らの求道を誤らせることがない。

——生如法師の開示
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