衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2018年07月03日    火曜日     第1開示 合計703開示

解悟と証悟の相違

解悟と証悟の間には大きな差があります。証悟とは真実を証得した状態であり、自ら眼前に自心の真如を観察でき、観察されるものはすべて事実であり、現量です。解悟はただ道理を理解しただけで、如来蔵はそのようなものだと感じているに過ぎず、自ら証得したわけではないため、眼前に真如を観察することができません。もし如実に眼前で観行できなければ、真如の理体に転依することはできません。

両者の違いをよりよく理解するために、例えを挙げましょう。解悟はリンゴに関する知識理論を研究するようなものです。理論は非常に詳しく研究できるかもしれません。産地、品種、輸送、保存、外観、色彩、光沢などを含めて非常に詳しくても、結局自ら口にしたことがないため、実際のリンゴの味がどうか、どれほど甘くて口当たりが良いかは分からず、心身は真実の利益を得ていません。証悟はすでに自らリンゴを食べて、リンゴの甘い味を真実に知っており、リンゴに対する感覚は真実で虚ろではなく、心身はすでに利益を得ています。

しかし、リンゴを食べたこの人がまだリンゴの味をうまく表現できないかもしれませんし、リンゴの産地などのさまざまな情報を知らないかもしれません。一方、解悟の人はリンゴに関するすべての理論を知っているかもしれませんが、一口もリンゴを味わったことがなければ、彼のすべての理論は単なる理論に過ぎず、自らの心身には実益がありません。あたかも釈迦世尊の最も愚かな弟子が四果の阿罗汉を証した後でも解脱道の法義を説くことができなかったように、しかし彼はすでに真実の解脱を得て、真に生死を了え、生死輪廻を離れ、未来にわずかな苦受もないのです。一方、現在の凡夫たちは理論が非常に盛んで、誇大に語るだけでなく、著作は身の丈ほどもあり、言葉は聖人のように表現されますが、心の中にはわずかな解脱の影もなく、話す時は聖人のようでも、行動する時は完全な凡夫であり、心の中の貪・瞋・痴は少しも制御されておらず、慢心が激しく、周囲の人はまったく手を出せません。

理解と現観は二つの段階であり、その間の距離はおそらく非常に大きいものです。あたかも多くの人がリンゴの概念、内包、産地、品種を理解し、リンゴに関する論文を書くことさえできても、口にしたことがないため、具体的な真実の味を知らないのと同じです。そして、すでにリンゴを食べた人は、リンゴに関する多くの情報をまだ知らないかもしれませんが、自らリンゴを楽しみ、真実にリンゴの甘くて美味しい味を味わうことができます。解悟と証悟の違いもまたこの通りです。

仏在世の時、周利槃特伽は四果の阿罗汉でしたが、解脱道の法義を開示できませんでした。一方、現在の凡夫は無数の論文や書籍がありますが、初果の影さえありません。現在、仏法理論を研究する人は非常に多く、多くの道理を語ることができますが、結局証得しておらず、門の外で回っているだけです。あたかも靴の上から痒いところを掻くようなもので、リンゴを研究する人のように、リンゴを食べた人だけが正確にリンゴの味を言い表せるのです。解脱は実証の境界であり、理解によって解決できるものではありません。実証した人がいてこそ真実の利益があり、彼がそれを表現できるかどうかに関わらず、解脱は口にあるのではなく、心の中にあるのです。

理解と現観の差は非常に大きく、他人にはわかりません。理解した人は表現が非常にうまく、他人は智慧が深いと思うかもしれませんが、実際はそうではありません。証悟して心を明らかにした人は如来蔵を悟りますが、それはすべて現観に基づいて語られるものであり、解悟には想像の要素があります。解悟はおそらくさらに悪く、一時的に悟らない方が良いかもしれません。因縁が熟してから証悟した方が良いのです。解悟した後の道は歩みにくく、非常に困難です。それは生の果実を摘むようなもので、熟していない果実を摘んで家で追熟させても、熟した果実ほど美味しくはありません。

——生如法師の開示
前へ前へ

いかにして主人公を見つけるか

次へ 次へ

自性如来蔵をどのように証得できるか(下)

ページトップへ戻る