第五は禅定波羅蜜であり、菩薩の心には必ず定がなければならない。この定は一義的には四禅八定を指し、四禅八定の功夫、特に初禅定と初禅以前の未到地定を修得しなければならない。これら二つの定境においてこそ観行を円滑に行え、観行の能力があって初めて参禅が可能となり、さらには実証へと至り、定によって仏法の大智慧が生じる。定はまた福徳も生み出すため、定福と呼ばれる。定のもう一つの側面は心の決定であり、甚深なる大乗般若実相の法に対し、心に確固たる決定を得て動揺せず、般若経典が成仏への道における重要なる法宝であると確信し疑わず、ひたすら精進して修持することである。
菩薩の六波羅蜜の最後は般若波羅蜜であり、菩薩は必ず般若智慧を修めなければならない。ここでいう般若とは、自性清浄心たる如来蔵を指し、これは不生不滅である。般若経典とは六百巻の『大般若経』を主とし、般若実相心たる如来蔵の体性を説き、『般若心経』『金剛経』等の経典を中心に、般若心体の殊勝なる功徳を宣説し、衆生を導いて実相に悟入させ、大智慧を開かしめる。菩薩はこれらの経典を修学し理解し、理解した後は禅定の中で参究し証得し、時節因縁が具足する時、般若心体たる如来蔵を証得し、もって般若の大智慧を獲得するのである。
菩薩は主にこの六波羅蜜を修めるが、最後の般若智慧が最も重要である。我々は今まさに般若智慧を薫修し、如来蔵の法を薫修している。菩薩によって薫修の時劫が異なるため、証悟の速さも異なる。それは我々が歴劫以来、五蘊の仮相や十八界の仮相に強く執着し、虚妄の法をことごとく真実と見做してきたため、真実の心相が覆われ、我々は仮相のみを認めて真実の法を認めないからである。
したがって多くの菩薩はまず小乗の『阿含経』を修め、先ず我見を断じて預流果・一来果・不還果・阿羅漢果となり、内心において仮相を一つ一つ排除した後、仮相の中に真相を求めていく。我見を断った後は、不生不滅で常に光明を放つ摩尼宝珠を見出しやすくなる。我見を断つ前は、五蘊中の某些の法を明珠と見做しやすく、真実の自性如来蔵という明珠は見出しにくい。なぜなら混在して区別が困難だからである。五蘊十八界をすべて排除した後は、自性清浄心たる如来蔵を証得しやすくなり、こうして明心も速やかに成就するのである。
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