五八果上円とは、仏地に至って初めて五識を証得するというのではなく、仏の果位を成就する時に五識と如来蔵が徹底的に転変し、究竟円満に識を転じて智と成すことを指す。いわゆる五識を証得するとは、五識を見出し知り、現前に五識を観察できることをいう。五識を証得することと五識を転換することとは隔たりが極めて大きく、五識の徹底的な転換は仏地に至って初めて可能であるが、五識の証得は凡夫でも可能である。住位の菩薩は如来蔵を証得できるが、習気の転換は初地の菩薩から始まり、その間の距離は大きく、一劫に近い修行を要する。眼鏡を探す際、眼鏡を発見することが即ち眼鏡を見出し証得することであり、手に取り現前に観察し、直視できることが親証である。
発見後に現前に観察できることが証得である。思惟によって得られたものは必ずしも証得ではなく、現前に観察できなければ心に自信が持てない。現前に観察できるものが真の証得であり、心に確信が生じ信心が具足する。如来蔵を思惟し理解することは如来蔵の証得ではない。自ら如来蔵を発見し見出すことが真の証得である。その所在を知り、現前に具体的な作用を観察できることが実際の証得であり、思惟や想像によるものではない。
迷える者だけが悟りを開く。迷いがあるから悟りがある。七識に迷いがあり、無始劫来の無明により自心を見失うが、修行を通じて自心を取り戻すことで自我を覚悟する。如来蔵には無明がなく、元来迷うことがない故に悟りを必要としない。仮に如来蔵が悟りを開いたとしても、如来蔵が自らの存在を証得しても、七識は依然として迷い無明を有したままであり、七識が悟らなければ凡夫のままである。如来蔵は元来凡夫ではなく聖人でもなく、迷うことも悟ることもない。
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