現代というこの時代においては、衆生の善根が浅く、福徳が乏しく、煩悩の性質が強いため、修学の次第としては、まず我見を断ち、その後で禅を参じて明心を求める必要があります。明心して密意を参究すると同時に我見を断つことはできず、密意は容易に推測できてしまい、五蘊十八界の我を否定する過程を経ない限り、我見を断つことはできません。
そしてこの過程は非常に重要です。極めて重要です。この過程を経ずに密意を知る者は、推測や推理の要素が非常に多く、結果的に密意は理解できても我性は除かれず、その後すべての行いは依然として所謂「我」を中心に展開されます。これまではまだ慎重に振る舞っていたものが、その後は公然と、あたかも切り札や後ろ盾を得たかのように振る舞うようになり、これはより恐ろしいことです。
したがって、各自が明心する前に必ず五蘊の無我性を観行し、我性を断除し、悪業の種子の流れを断ち切らなければ、真の名実相伴う無我性の菩薩となることができます。もしこの過程を経ず、我見を断たずに直接密意を得た者がいるならば、私としてはこれを明心の菩薩とは認めません。他の場所で適当に認証されることについては関知しません。
多くの人々は仏法を学ぶ明明において無我解脱を求めているのに、つまり無我に至るために法を学んでいるのに、自らの心の内で無我を観行せず、その言語・行為・心念の造作は依然として所謂「我」を中心に展開され、自己に執着するだけでなく他者にも執着し、自己を操ろうとするだけでなく他者をも掌握しようとします。このような行いは道に背くものであり、いつ無我を成就でき、いつ心の解脱を得られるでしょうか。
一個人の身口意の行いが無我であればあるほど、内心はより解脱し、より自在となります。これが仏法修学の究極の目標です。仏法修行は個人の世俗的利益を得るためではなく、むしろ世俗における所謂個人の利益を捨て去ることによってこそ、出世間法の最大の利益を得、世間のあらゆる利益を獲得できるのです。この道理を理解しなければ、すべての作為は無明であり、煩悩の深い穴から出ることはありません。
実際には世間利益など存在せず、すべては虚妄不実の法であり、究竟的に得るべきものは何もありません。常に深く世俗界のすべての法を観行すれば、この道理が明らかになります。なぜ依然として「我」を固く捉えて捨て去らないのでしょうか。
一切の法を捉え自我の利益を掴む両手をそっと緩め、ゆっくりと放してみてください。すると天地がどれほど広大か、心がどれほど豁達で自在かがわかるでしょう。これまでの生生世世無量劫はかくも苦悩に満ち耐え難いものでしたが、すべては所謂「我」のためであり、時処所所で「我」のために行動しながらも何の利益も得られず、ただ苦悩し続けてきたのです。今や無我解脱の法に出遇ったこの機会に、なぜ自我を捨て去り、一日も早く解脱と自由を得ようとしないのでしょうか。
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