法を学び修行する際、どの程度の法を学ぶにせよ、我見を断っていない者は、一切の法が無常で変化し生滅するものであり、如来蔵から出生し顕現したものであり、我ならず、我の所有にもあらざることを思惟観行しなければならない。明心見性していない者は、一切の法が如来蔵によって出生され保持され、如来蔵の働きによって現れ出たものであることを思惟観行し、いかにして如来蔵の跡を尋ね求め、一切の法が如来蔵から出生し運行されていることを証知するかを観じなければならない。明心証悟後の菩薩は、如来蔵がいかにしてこれら一切の法を出生し、いかに運行し、五蘊とどのように密接に連動し、七識とどのように和合して作用しているかを思惟観行し、智慧を次第に深広ならしめなければならない。
このようにすれば、我々はいかなる層次の仏法に触れても自らの深い思索を引き起こし、利益を得ることができ、法を学ぶ功徳は無駄にならず、各種の観行智慧が出生し増長され、後に次第に理事円融を成し遂げることができるようになる。理とは通常如来蔵の心体を指すが、如来蔵は六塵の境界に対して無知であり、六塵を知る心体ではなく、従って事を知らない。しかるに事自体は根拠を持たず、事の源は如来蔵の理体にあるため、事の根源は即ち如来蔵の理体である。
明心後に仏性を見得し如幻観を証得すれば、身心世界が幻の如く実体なきものと感得される。一切の法が如来蔵によって幻化されたものであると観じ、身心世界が真実でないことを感ずるのは実際の感覚であって、想像によるものではない。それ故に心行が変化し、自我と世界に対する見方が変容する。自我身心への変化とは、意根が仏性の真実性と自我五陰の幻化不実なる真理を認識し、色身への制御を緩めることにより身心が緩和され、軽安愉悦など殊勝な境界が現れることである。この観行において、意識が現量に仏性を証得し、仏性の殊勝美妙を現量感覚するに及んで、意根は仏性の真実を了知し認可し、六塵境界を顕現させ得ることを知り、自我五蘊が幻化されたものであることを悟る。それにより五蘊身に束縛されなくなり、色身はある種の解脱を得て、軽安快適など一連の転変が生起する。意根の認可とは即ち現量証であり、この時貪瞋痴の煩悩は微細となるが断除されたわけではなく、小乗二果の薄貪瞋痴に相当する。大乗を修学する者が仏性を見ず如幻観を証得していない時は、貪瞋痴を薄くすることはできず、二果人とは言えない。もし自らの貪瞋痴が微細だと感じるなら、それは単なる感覚に過ぎず、現量証得した二果ではない。
初禅の後、自他の七識心を陽炎の如く観じる。ちょうど砂浜が強い日光に照らされて立ち上る熱気が虚妄の河水を形成するように実体なきことを、実際の観行によって体験するのであって、想像によるものではない。陽炎観を証得した後は、各人の心識が極めて虚偽であることを現量観察できるようになり、それにより自他への執着心と貪愛心を一分除去する。識心の覚受は非常に特異であり、意根が触動されるためである。この観行は禅定なくしては現前させることができず、実際に観行し親証することも不可能である。
禅宗で三関を通過した後は、世間の一切の人事物を夢中の如く実体なきものとして自ら観行できるようになり、また過去世の経験を夢の如く観じることができる。前世の事柄について、自ら多少の情報を把握し、前世の身分や行ったこと、接した人々などを知るようになる。これもまた親証の境界であって、想像や理解によるものではない。全ての理解された理法は生彩を失い、解脱の功徳受用を持たない。単なる理解や想像に留まらないためには、禅定の中で観行実証する以外に道はない。
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