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日常開示

2021年03月23日    火曜日     第2 回の開示 合計3222回の開示

アビダルマ倶舎論 第九巻

(九)原文:契経に説く如く。何を無明と為すや。前際に対する無智を謂う。乃至広説。此れは了義の説なり。抑えて不了義に成らしむべからず。故に前に説きたる分位の縁起は、経義に相違す。全ての経が了義説に非ず。亦た勝に随って説く有り。象跡喩経の如し。何を内地界と為すや。発毛爪等を謂う。彼に余の色等の法無きに非ずと雖も、勝に就いて説くなり。此れも応に爾るべし。

釈:例えば契経では、無明とは何か?前際の法に対する無智無知を指し、広く無明を説く。中際・後際の法に対しても同様に無智無知である。これこそが了義の説であり、了義を不了義に変えてはならない。故に先に述べた分位の縁起説は経義に矛盾する。全ての契経が了義説ではなく、より勝れた法義に従って説かれたものもある。例えば象跡喩経では、内地界とは発毛・爪等を指すとある。他の色法が存在しないわけではないが、より顕著な色法を代表として挙げたのである。無明についても同様の理屈が適用される。

原文:引き出された例証は証明に非ず。彼の経中に於いて、地界を以て発毛等を弁じんと欲するは、具足説に非ざるを成す為に非ず。然るに彼の経中に発毛等を以て地界を分別す。地界が発毛等を超越する有りて非ず。故に彼の契経は具足説なり。此の経の説く無明等の支も彼の如くあるべく、具足説を成す。説かれたる外に復た余有ること無し。

釈:経典に挙げられた発毛爪は証明ではない。経典が地界を用いて発毛爪の属性を明らかにしようとしたのは、不十分な説法ではない。経典は発毛で地界を定義しており、地界が発毛爪を超越するものではない。故にこの契経は地界を完備して説いたものである。無明等の支分についても同様に完備されており、無智以外の解釈は存在しない。

原文:豈に地界が発毛等を超越せず、洟涙等の中に其の体有りとせざらんや。身中に洟等有るも、皆彼の経に説かる。経に説く如く「復た身中の余物有り」と。設い彼と同様に余の無明有りとせば、今示すべし。若し異類を引き無明中に置かば、此れ何の益有らん。各位に於いて五蘊有りと雖も、然れども此の有無に随い彼の有無定まる者は、此の法を彼の法の支と立つべし。或は五蘊有りて行無く、福・非福・不動行に随い、識乃至愛等有るが故に、経義は即ち説かれたる如し。

釈:内地界が発毛爪を超越せず、洟涙等の色法を含むのではないか?身体には洟等の色法も存在し、経典にもその旨説かれている。もし他の無明が存在すると主張するなら、それを示すべきである。無明でない法を無明に帰属させる意義はない。十二縁起の各位に五蘊が存在するが、十二支の有無に従って五蘊の有無を規定するなら、その法支を成立させ得る。行支(福・非福・不動行)や識・名色・六入・触・受・愛等の支分が五蘊を伴わない場合もあるため、経典の趣旨はその通りである。

原文:説かれたる四句の理も然らず。若し未来の諸法が縁已生に非ざらんには、即ち契経に違背す。経に説く「何を縁已生法と為すや。無明・行より生・老死に至るを謂う」。或は二(因と果)を未来に許さざるべし。是れ則ち前に立てたる三際有説を破壊す。縁起は無為法なり。契経に「如来出世するも、出世せざるも、斯の如き縁起の法性は常住なり」と説くが故に。此の如き意に由れば理則ち可なり。別意に由らば理則ち然らず。

釈:前述の四句理論は正しくない。未来世の諸法が縁已生でないとすれば、契経の「無明・行から生老死までが縁已生法である」との説に矛盾する。因果二支を未来世に認めないなら、三世(過去・現在・未来)の存在に関する従来の説を破壊する。縁起は無為法である。経典に「如来の出世有無に関わらず、縁起の法性は常住不変」とある通り、この解釈に従えば理に適うが、別の解釈では理に合わない。

——生如法師の開示
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