(九)原文:例えば契経は説く。何が無明であるか。前際に対する無智を謂う。乃至広く説く如くである。この了義の説は、不了義に抑圧して成らしめることはできない。故に先に説いた分位の縁起は、経義に相違する。全ての経が了義説であるわけではない。また勝に随って説くものもある。例えば象跡喩経の如くである。何が内地界であるか。髪・毛・爪等を謂う。彼に他の色法等がないわけではないが、勝に就いて説くのである。これもまた応にこの如くあるべきである。
釈:例えば契経では、何が無明かというと、無明とは前際の法に対する無智無知であり、さらに広く無明を説き、中際や後際の法に対しても無智無知であるとしています。これこそが了義の説であり、了義を不了義に抑圧することはできません。したがって、先に述べた分位の縁起は経義に反しており、すべての契経が了義説というわけではなく、より勝れた法義に随って説かれたものもあります。例えば象跡喩経では、何が内地界かというと、内地界とは髪・汗毛・爪などを指し、内地界に他の色法が列挙・表示できないわけではありませんが、より顕著な色法を代表として挙げているのです。同様に、無明もまたこの通りです。
原文:引き合いに出されたものは証拠とはならない。その経中で、地界をもって髪・毛等を弁明しようとしたわけではない。不具足説を成すのではない。しかしその経中では髪・毛等をもって地界を分別しており、地界が髪・毛等を超越して存在するわけではない。故にその契経は具足説である。この経の説く無明等の支もまた彼の如くあるべきで、具足説を成し、説かれたもの以外にさらに他のものはない。
釈:経中に挙げられた髪・毛・爪は証明にはならず、経中で地界をもって髪・毛・爪の属性を弁明しようとしたわけではなく、不具足の説ではありません。経中は髪・毛をもって地界を定義しており、地界が髪・毛・爪などを超越するというわけではないので、契経は地界を具足説しているのです。この経の説く無明等の支もまた同様に、具足説であり、説かれた無智以外に他の解釈はありません。
原文:まさか地界が髪・毛等を超越し、洟・涙等の中にその体があるわけではない。洟等もまた全てその経中に説かれている。例えば「また身体中に他の物がある」と説く如くである。もしそれと同様に他の無明があるならば、今こそ明示すべきである。もし異類を引き合いに出して無明の中に置くならば、これに何の益があるのか。各位において全て五蘊は存在するが、これの有無に随って、彼の有無が定まるならば、この法を以て彼の法の支と為すことができる。あるいは五蘊は存在しても行がない場合がある。福・非福・不動の行に随う識、乃至愛等がそれである。故に経義は即ち説かれた如くである。
釈:まさか内地界が毛髪・爪等を超越して、さらに鼻水・涙などの色法がないわけではないでしょう?身体中にも鼻水などの色法は存在し、契経にもそのような説があります。例えば経には「身体中にさらに他の物質色法がある」とも説かれています。もしこれと同じように他の無明があると言うなら、今こそ私たちに明示すべきです。もし無明でない法を無明に帰属させるなら、これに何の意味があるでしょうか?十二縁起法の各位には全て五蘊が存在しますが、もし十二支の有無に随って五蘊の有無を定説するならば、この法支を以て彼の法支と為すことができます。ある支分には五蘊があっても行がない場合があり、例えば福・非福・不動の行に随う場合、不動の識・名色・六入・触・受・愛等の支がそれです。したがって経義はそのように説かれている通りなのです。
原文:説かれた四句の理もまたそうではない。もし未来の諸法が、縁によって既に生じたものでないならば、契経に違背する。経は説く。何が縁已生法であるか。無明・行より生・老死に至るまでを謂う。あるいは二(因果)が未来に存在することを認めないべきかもしれない。そうなれば前に立てた三際有の説を破壊することになる。縁起は無為法である。契経が「如来の出世・不出世にかかわらず、かくの如き縁起の法性は常住である」と言うが故に。このような意によるならば、理は然るべし。もし別の意によるならば、理は然らず。
釈:上で述べた四句の理はそういうものではなく、もし未来にまだ生じていない諸法が、縁によって既に生じた法でないと言うならば、契経の説に背くことになります。経では、何が縁已生法かというと、無明・行、さらには生と老死の十二支が全て縁已生法であると説いています。ある者は因果二支が未来世にも現れることを認めず、そうなれば前に立てた前後際・中際の存在に関する説を破壊することになります。縁起は無為法です。なぜなら契経が「如来が出世しても出世しなくても、縁起の法性は常住不壊である」と説くからです。この道理に依るならば理は通じ、別の意味に依るならば理は通じません。
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