胡人が来れば胡人の姿を現し、漢人が来れば漢人の姿を現す。如来蔵は鏡の如く、誰が照らせばその者の姿を映す。一切の法は鏡中の像の如く、全て如来蔵が鏡が像を映すように顕現したものである。大地山河は鏡中の像の如く、色声香味触法も鏡中の像の如し。鏡の外に物無く、心の外に一法も存在しない。しかし衆生の心が異なれば、現れる像も異なる。故に一つの像が現れても、各人の心が異なれば異なる観点・意見・見解が生じ、互いに争い、紛糾し、世界は平穏でなくなる。
昔、三人が観音菩薩を拝むためインドへ巡礼した。石窟に入り、三人は同じ観音菩薩像を前にしたが、修行の境地が異なるため、見える像に差が生じた。一人は観音菩薩の出家像を見、一人は在家像を見、一人は帽子を被った観音像を見た。更に見える身色も大きく異なった。外相分は同じであるが、各人が見る内相分に差異があった。これは各人の心の境界が異なることを示している。
同じ川でも、人間には河水に見え、天人には瑠璃に見え、餓鬼には炎に見える。福徳が異なれば、現れる像も異なる。これにより像は唯識所変であり、八識の和合によって顕現されることが分かる。衆生が心を修め、心が清浄になれば、娑婆世界の大地は黄金の地と化し、極楽世界と寸分違わなくなる。心が仏を作り、心が餓鬼を作る。心が完全に清浄になれば、西方を求め、また東方を求める必要があろうか。迷える者は相を修め、心を修めず、百劫を修しても相好を見ることができない。
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