仏は一切の法はすべて自心の現量であると説かれた。自心とは、真実の心、永遠に壊れない心である。現量とは、現実に存在する事物、眼前に現れているもので、虚構や想像ではなく、比較によって得られたものでもない。比較によって得られたものは比量と呼ばれ、想像されたものは非量と呼ばれる。一切の法は因縁によって生じるため、因縁法である。因縁法におけるすべての現象は自心に現れたものであり、すなわち一切の法は自心が現じ、自心が変じたものである。心を離れては一切の法はなく、心を離れれば因縁法も存在しない。
因縁法が自心の現量であり、自心から生じたものであるならば、それは真実の法ではなく、生じられた法は滅する。生があれば必ず滅があり、生がなければ滅することもない。因縁によって生じた法はすべて生滅する法であり、因縁が具足すれば生じ、因縁が散じれば滅する。したがってそれは虚妄の法であって、実法ではない。それ故に世尊は、これらの因縁によって生じた法への貪執を離れるよう我々に求められたのである。これらの仮の法に執着することは生死輪廻であり、苦悩である。真実の法については、世尊は我々にそれを離れるよう求めたことは一度もない。根本的に離れられないからである。しかし、それに執着してもならない。何に執着しても正しくない。自心の本性は元来無執着であり、何ものにも執着したことはない。世尊は我々に自心と相応することを求められた。そうすれば生死の煩悩はなくなるのである。
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