衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年07月09日    月曜日     第1開示 合計724開示

有相戒と無相戒

一切の法の証得には末那識の体得が必要であり、末那識が体得されれば、自動的に自覚的に戒律を保ち守るようになる。意識が戒律に対して行う解釈が末那識に影響を与えない場合、悪業の因縁が具足すると、末那識は依然として自身の煩悩習気に従って身口意の悪業を造作し、意識では容易に制御できない。末那識が関連する法義においてある程度体得されると、どのような外縁に遭遇しても、自らの習気に依って再び身口意の悪業を造作することはない。なぜなら、それは虚妄の法に対して心を用いて造作することがなく、ましてや悪法を造作しようとはさらに思わないからである。

戒はまず意識によって受持・守護され、徐々に末那識を導いて、末那識に戒を守らざるを得ない状態にさせる。末那識が戒を守ることが習慣化すると、自動的に自覚的に戒を守るようになり、この時はもはや意識による監督や規制を必要としない。末那識が戒を守れず、意識による規範や監督を必要とする段階は、意識が持つ有相戒(うそうかい)の段階である。この段階は凡夫の位から第三果の聖者および地上の菩薩に至るまで続き、この段階の者は必ず有相戒を持たねばならない。なぜなら末那識には初禅の定水による潤いがなく、殊勝な身心の覚受功徳がないため、煩悩を断除できず、必然的に煩悩によって悪業を造作し、戒律を保全することができなくなるからである。

我見を断除し初禅の定を修得した後、末那識は徐々に煩悩を断除し、心が自動的に清浄になるため、もはや意識による監督や監視を必要としなくなる。この時に初めて無相の心地戒(むそうのしんちかい)を持つことができ、世俗の相を過度に気にせず、いかなる縁に遭遇しても心が矩を越えることはない。なぜなら心の働き(心行)が消失しているため、衆生を救護するための色身における造作は犯戒に属さず、それによって三悪道に堕ちて悪報を受けることはない。もし誰かがこの境地に至っておらず、有相戒を持たずに専ら地上菩薩の無相戒を行じるならば、戒律に関わる問題が生じた場合、必ず犯戒行為に属し、必ず悪報を受ける。因果の応報は決して曖昧にはできません。

——生如法師の開示
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意根のみが疑いを断ち信を生じるならば、如来蔵は随順する

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