衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年07月09日    月曜日     第2 回の開示 合計725回の開示

意根のみが疑いを断ち信を生じるならば、如来蔵は随順する

一切の万法は如来蔵を離れず、意根を離れずして存在し説くことができる。意識はただ補助的な役割を果たすに過ぎない。意識は参謀のような脇役であり、意根こそが主役であり、将軍のごとく、全ての決定権は意根に帰する。意識は参謀として絶えず意根のために六塵の情報を収集し、六塵の詳細な情報を分析し、意根に相応しく適切かつ時宜を得た合理的な建議を与える。

意根は意識が分析した情報と建議を受け取った後、自ら特有の思考加工と考量を行い、意識の言う通りに六塵を処理するか、あるいは意根自身の経験、習慣、考え方や観念に基づいて次の行動を決定する。この全過程が意根の思心所の機能作用である。意根がなお次の行動の取り方を決定できない場合、再び意識に情報収集を命じて参考に供させる。将軍が決断できない時、参謀に更に有用な情報を収集させ、詳細に報告させ、将軍が再び決策を下すのと同様である。

ここに見えるように、疑いを断つ最も重要な点は意根の疑いを断つことにある。意識の疑いを断ち意根の疑いを断たなければ、意根は依然として疑いを残す。(ただし意識の疑いは、意根が時として解決を助けることもある。)例えば一家の主人に問題がある時、家族全体が彼の問題解決に協力しなければならず、彼の問題が解決されなければ、家族全体が正常に秩序立てて運営することができない。

疑いを断じて信を生ずるとは、疑いを断つことも意根に断たせ、信を生ずることも意根に信を生じさせることである。初めは意識の信、意識の信は迷信・仰信・寵信であり、不安定な信で正信ではない。正信深信とは意根の信であり、この種の信は深く根を下ろし堅固不抜である。意根に信がなければ、自ら進んで正法を修学しようとはできない。意識がどれほど信じても、意根が疑いを起こせば意識はどうすることもできず、ただ意根の考えに従うしかない。意識は意根将軍の参謀に過ぎず、将軍に代わって決定を下すことはできない。そして如来蔵と意根の関係は父子関係の如く、意根という息子が何かを為そうとする時、如来蔵という父は財力・物力・人力があれば必ず随順して彼を満足させるのである。

——生如法師の開示
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