一切の万法は如来蔵を離れず、意根を離れずして存在し、説くことができます。意識はただ補助的な役割を果たすに過ぎません。意識は参謀という脇役のようなものであり、意根こそが主役であって、将軍のようにすべての決定権は意根にあります。意識は参謀として、絶えず意根のために六塵の情報を収集し、六塵の詳細な情報を分析し、意根に相応しく適切かつ適時の合理的な助言を与えます。
意根は意識が分析した情報と提案を受け取った後、自ら特有の思考加工と考量を行い、それから意識の言う通りに六塵を処理するか、あるいは意根自身の経験、習慣、考え方、観念に基づいて次の行動を取るかを決定します。この過程全体が意根の思心所の機能作用です。意根がなお次の行動の取り方を決定できない場合、再び意識に情報を収集させて参考に供させます。まるで将軍が決定できない時に参謀にもっと有用な情報を収集させ、詳細に報告させ、将軍が再度決断するのと同じです。
このように、疑いを断つには何よりも意根の疑いを断つことが重要であり、意識の疑いを断っても意根の疑いを断たなければ、意根はなお疑いを抱いたままです。(ただし意識の疑いは、意根が時として解決を助けることもあります。)例えば、一家の主人に問題がある時、家族全体が彼の問題解決に協力しなければならず、彼の問題が解決されなければ、家族全体が正常に秩序立てて運営されることはできません。
疑いを断って信を生じさせることも、疑いを断つのは意根に断たせ、信を生じさせるのも意根に信じさせることです。最初は意識の信ですが、意識の信は迷信、仰信、寵信であり、不安定な信で、正信ではありません。正信深く信じることはすなわち意根の信であり、この種の信は根深く固く、揺るぎないものです。意根に信がなければ、自ら進んで正法を修学しようとはできません。意識がどれほど信じていても、意根が疑いを起こせば意識はどうすることもできず、ただ意根の考えに従うしかありません。意識は意根将軍の参謀に過ぎず、意根将軍に代わって決定を下すことはできません。そして如来蔵と意根の関係はまるで父子の関係のようであり、意根という息子が何かをしようとすれば、如来蔵という父親は財力、物力、人力さえあれば、いつでも彼に随順して満たしてやるのです。
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