空、無相、無願の三法門は次第に深まり、究竟の解脱に至る
空にして空の相無きを無相解脱門と名付く。空の法には、形ある相貌を見ること、説くこと、指し示すこと能わず。空すらもまた空なり、これ即ち無相解脱門なり。空には何らの相も無く、空すらも無きを知る時、心は更に解脱す。もし空の相さえ有らず、空すらも無きならば、尚何を以て空に執わんや。相有らざれば即ち願求無し。もし相すら無きならば、我らに何の願求あらん。何ものも再び求むる要無し、これ即ち無願解脱門なり。願求の心無くして更に解脱せり。空・無相・無願、この三解脱門を成就せし者は即ち聖人なり。
空・無相・無願の三法は空と共に歩み、空を離れずしてまた空の相無く、三者相離れずして次第に深まり、究竟の解脱に至る。我らが涅槃に入り、不生不滅を求めんと欲すれば、かくの如く修行すべし。絶え間なく空の心行を生じ、ますます空じ、空すらも空じて、始めて空は清浄俐落なり。もし心に尚お一つの空を留むるならば、真の空に非ず、尚お空の心を滅すべし。涅槃の道に於いてかくの如く修学する時、涅槃を証得せん。涅槃は即ち解脱なり、涅槃は即ち不生不滅なり、涅槃は即ち寂静無為なり、涅槃は即ち大自在なり。
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