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日常開示

2021年03月22日    月曜日     第2 回の開示 合計3218回の開示

阿毘達磨倶舎論 第九巻

(八)原文:然今正釈。契経の意は。頌に曰く。此の中の意は正に説く。因起こり果は已に生ず。論に曰く。諸支の因分は。縁起と説く名づく。此を以て縁と為す。能く果を起こすが故なり。諸支の果分は。縁已に生ずと説く。此を以て皆縁より生ずるが故なり。是の如く一切二義倶に成ず。諸支皆因果性有るが故なり。

釈:今正しく契経の意を解釈するに、頌に曰く「此の経中の意は正しく説く所は、因の起こる時、果は既に生じ起これり」と。例えば触の生起する時、受は既に生じ出でたるが如し。論に説く、十二支の因分を縁起支と説くは、此の因支を以て縁と為し能く果支を生起せしむる故なり。例えば触支は縁起支なり、触を以て縁と為し、受の果を生じ、受を以て縁と為し、愛の果を生ず。十二支の果分たる受・愛・取等を、縁已に生じたりと説くは、触・受・愛等の縁の如し。此を以て説く可し、一切の法は皆縁より生ずる故に、是の如く一切の法は因果二義共に成就するなり。十二支は皆因果の性を有する故なり。

原文:若し爾らば安立は応に倶に成ぜざるべし。然らずんば観ずる所に差別有るが故なり。謂わく、若し此を観ずれば、縁已に生ずと名づく。即ち此を観ずるに非ずして、復た縁起と名づく。因果・父子等の名の如し。尊者望満。

釈:若し此の説が成立するならば、一切法に因果の性有りと安立するは、因果は同時に成立すべきに非ず。例えば受支は触支の果なり、触は受の因なり、触が最初に生起する時、受は未だ同時に生起せず、触が円満具足する時に至って初めて受が生ず。因果は同時ならず、若し因果が同時に生起すと強いて言わば、観ずる所の法に差別と欠漏有り。例えば此の触支法を観じて縁と為す時、生じたる受支は既に生起せり、又縁起法と称す。然るに受は同時に縁起せず、因果・父子等の名は、唯だ因縁具足の時に於いて成立す。若し因未だ具足せざれば、果は即時に現れず。若し因具足せざれば果現れず、即ち因果の説無し。若し子たる因縁未だ具足せざれば、父の名は成立せず、即ち父子の説無し。

原文:意は諸法に是れ縁起有りと謂う。縁已に生ずるに非ず。応に四句を作す可し。第一句は謂わく、未来の法。第二句は謂わく、阿羅漢の最後心位。過現の諸法。第三句は謂わく、其の余の過現法。第四句は謂わく、諸の無為法。経部の諸師は是の如く白す。此の中に説く所は己の情を述ぶる為か、経義なるか。若し経義ならば、経義然らず。所以は何ん。且つ前に説く所の分位縁起十二、五蘊を以て十二支と為すは、契経に違背す。経は異説有る故なり。

釈:経中の意に、諸法の有は縁起法なりと説くも、已に生じたる法は縁に非ず、後の法を生ぜしむる能わず。非縁起法は四句を以て解説す可し。第一句は未来法、現在の縁は未だ未来世の法を引かず、縁起法未だ現れず。第二句は阿羅漢最後心位の過去現在の法、阿羅漢の過去現在の縁は生起せりと雖も、後世は現れず、縁起法再び生ぜず。第三句は阿羅漢最後心位を除く過去現在の法、此等の法は縁と雖も、生じ得る法は未だ生ぜず、縁起法存在せず。第四句は全ての無為法、既に無為法と称する以上は執取心無く、今為す所の一切は後の世の法を引かず、既に縁起法無し。此に就き、経部の諸大師は是の如く解釈せり。然るに彼等の説く所は自己の情解か経文の原義か。若し経中の意ならば、経意は然らず。何を以てか此くの如く言う。先に説く所の分位縁起十二支、五蘊を以て十二支と為すは、即ち契経に違背す。契経は此の如く説かざる故なり。

——生如法師の開示
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