古語に曰く、人を試すには、辱め罵られても受け入れられる者を以て可しとし、抑え挫かれ求めても与えられずとも従容として受け入れる者を以て可しとする。先ずその重荷を担うことができれば、後に栄誉を享受することができる。仏法の修証において、道器たる者は必ず一切の重荷を担い、一切の辱めを受ける。なぜなら心は空にして我無く、道と相応ずるからである。常に己の意に順うことを求める者は器に非ず、用いるべからず。我執の心が空ならず、道と相応じないからである。何事も己を先にし主とする者、他人を後回しにする者は皆我執重く、道器に非ず。大器は必ず度量広く、心の器量が大きければこそ一切を包容できる。宰相の腹には船を浮かべ、心狭き者はただ糞尿を容れるのみ。志有り責任を担う大心広量の者に対し、機会あれば試練を与え、その心性を鍛錬すべし。百たび錬えて初めて鋼となる。種々の逆境の鍛錬と試練を乗り越えた時、器は完成する。以後一切の苦楽境界に動じず、心は頑石の如く、初禅到来の時魔王が乱れ来たりても心動かず、初禅の関門を突破し、証果後に必ず煩悩を断つ。
禅定の功夫ある者は定力強く、常に心性柔軟にして、己に加えられる如何なる屈辱にも拘らず、冤罪を叫ばず、心は空と相応ず。昔の修行者は、一定の境地に至ると師匠は試練を与え、耐受力を高めた。辱め罵り理不尽に打ち据え、無実の罪を着せられても弟子は屈辱を感じず、弁明せず、ましてや逃げ出さない。打たれても去らず、罵られても逃げぬ者こそ真の弟子、度すべき道器である。心空の者は如何なる欺辱も意に介さず、学ぶ法有り修す道有れば心の拠り所を得、やがて証道する。道は眼あるが如し。
趙州和尚は言う、上等人は禅床にて迎え、中等人は門前にて迎え、下等人は山門外にて迎えると。下等人ほど心量狭く、眼光短く、我執重く、柔軟語と慈愛の言葉を要す。誤りあっても直接指摘せず、ましてや叱責すべからず。少しでも叱れば逃げ去り手を引く。上等人は心量広く、我執薄く、情少なく執念少なく、心は道中に在りて道外の人事物理を顧みない。故に自尊心重き者ほど尊重と包容を要し、言葉は婉曲丁寧にすべし。心強き者には直截に、容赦なく接して憚らず。器量の大小を見れば、有道無道、有修無修、一目瞭然なり。
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