衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年03月22日    月曜日     第1 回の開示 合計3217回の開示

辱めを受けても驚かないこそ道器たる所以、師の教えを受けるに足る

古語に云う:人を試すには、辱め罵られても耐えられる者を以て可し、抑え挫かれ求めても与えられずとも従容として受け入れられる者を以て可し。先ず其の重みを担い得る者は、後に其の栄えを享くることを得ん。仏法の修証において、道器たる者は必ず一切の重荷を担い、一切の辱めを受く。心空にして我無く、道と相応ずるが故なり。常に己が意に順わんとする者は器に非ず、用いるべからず。我執の心空しからず、道と相応ぜざるが故なり。凡そ事ある毎に己を先にし主と為し、他人を後にする者は皆我執重く、道器に非ず。大器なる者は必ず大なる量あり、心量大なるが故に一切を包容し得。宰相の腹に船を浮かべ、心の狭き者はただ糞穢を容るるのみ。志有り担い手ある大心大量の者に対し、機会あれば試練を与え、其の心性を鍛えしむ。百錬して鋼と成るが如く、種々の逆境の鍛錬と試練を悉く耐え抜きて、器は遂に練り上げらる。以後一切の苦楽境界も奈何すること能わず、心は頑石の如し。将来初禅到来の時、魔王来たりて擾乱すとも心動かず、初禅の関を過ぎ、証果の後必ず煩悩を断つ。

禅定の功夫ある者は定力強く、常に心性柔軟にして、己に加えられる如何なる屈辱にも拘らず、冤罪を叫ばず、心空と相応ず。往昔修行の者、修練一定の域に至れば、師匠は試練を以て其の耐受力を高めんとす。罵詈雑言、理不尽なる打擲、根拠無き罪状を着せられても、弟子は毫も委屈を覚えず、弁明せず、ましてや怒りて逃げ去ること無し。打たれても去らず、罵られても逃げぬ者こそ真の弟子たり得、度すべき道器なり。心空なる者は如何なる欺辱にも意に介せず、学ぶ法有り修むる道有らば、心の寄る辺を得て、やがて証道するに至る。道の眼あること明らかなり。

趙州和尚曰く、上等人は禅床にて接し、中等人は門前にて接し、下等人は山門外にて接す。下等なる者程、心量狭く、眼光短く、我執重く、柔軟語と愛語を以てせざるべからず。仮に誤り有りとも直に指摘すべからず、ましてや呵責すべからず。稍々呵責せば即ち逃げ去り手を拱くに至らん。上等人は心量広大、我執微少、情少なく執念少なく、心道中に在りて、道外の人事物理を顧みず。故に自尊心重き者程、尊重と包容を要し、言葉は婉曲丁寧を要す。然るに内心強き者は、直截簡明、劈頭蓋面、敢えて遠慮無用。器量の大きさ然らしむ。道有る無き、修有る無きは、一目瞭然なり。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

父子合集経講話(一六三)

次の記事 次の記事

阿毘達磨倶舎論 第九巻

ページのトップへ戻る