なぜ一切の法には来処も去処もないのか。
原文:大王よ。少しの法も、この世から他世へ至ることはない。なぜか。自性が生滅するがゆえである。大王よ、身識が生じる時、来るところなく、滅するに去るところなし。その業が生じる時、来るところなく、滅するに去るところなし。初識が生じる時、来るところなく、滅するに去るところなし。なぜなら、自性が離れているからである。このように了知せよ。身識は身識として空、自業は自業として空、初識は初識として空。滅するも滅は空、生ずるも生は空。業の転変を了知し、作者なく受者もなし。ただ名相のみが分別によって顕現する。
釈:仏は説かれた。大王、いかなる法もこの世から来世へ流転することはない。なぜか。一切の法の自性は生滅を繰り返し、常住不変ではないからである。臨終に五陰が滅する時、一切の法は皆滅する。大王、身識が生起する時、来処なく、滅する時も去処なし。業を造作する時、業の来処なく、業が滅する時も去処なし。来世の最初の識が生起する時、来処なく、滅する時も去処なし。
なぜ一切の法に来処も去処もないのか。一切の法が一切の性を離れ、一切の法の自性には一切の相がなく、自体が空で把捉し得ないからである。このように身識を了知し、身識の自性が空であることを了知せよ。このように自らの識心が造作した業行を了知し、業行の自性が空であることを了知せよ。このように初識を了知し、初識の自性が空であることを了知せよ。このように一切の法が生じればその生は空であり、一切の法が滅すればその滅は空であることを了知せよ。同時に業行の造作と流転には作者も受者もなく、一切の法はただ仮相と名称による分別と顕現に過ぎないことを了知せねばならない。
我々が接触する一切の法は虚妄の法である。自ら繰り返し夢境と比較対照することで、世俗法に対する実感が生じ、内心の執着は緩み、多くの事柄に積極的に関わらなくなる。現実生活における身口意の行いは次第に清浄となる。世尊はこの経典で繰り返し夢を比喩に用い、浄飯王を導いて五欲六塵の虚妄を見破らせ、この世界の本質が夢幻の如く真実性のないものであることを認識させようとされている。
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