歇す即ち菩提とは、その休んでいる心、休息している心が無為の心であることを意味します。三界の世間法に執着せず、一切の法に対して無心であり、造作を起こそうとする心の働きがなく、常に寂滅の状態にあります。三界世間の心の働きがなく、これを心行処滅とも申します。この心こそが第八識であり、実際には第八識もまた有為ではありますが、絶えず意根に随順して三界世間の一切の法を創造しながらも、自らの造作に執着せず、一切の法にも執着しません。有為の中にあって時処皆無為なのです。
第八識の無為性は、縁に随って任運に為すこと、縁に随って生死に入りながら自らには生死がなく、一切の法に執着せず、何らかの法を把捉せず、一切の法を分別しない点に現れています。このような心性を歇心と申します。休んでいる心こそが第八識の本性であり、元来より休んでいて、事に心なく、心に事なく、為すべきこともなく、何の障害もありません。六識や七識が修行を経て後天的に無為法である第八識の歇心になるのとは異なります。六識と七識はどのような状態にあっても、すべて第八識の中に存在し、第八識が顕現させたものであり、第八識に属するものです。第八識に戻るか否かの問題ではございません。つまり、一切の法には真法と妄法があり、真法は元来真実であり、妄法は元来虚妄です。妄法はいかなる手段を用いても真法に変わることはできないのです。
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