衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
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日常開示

2021年03月21日    日曜日     第2 回の開示 合計3214回の開示

阿毘達磨倶舎論 第九巻

(七)原文:この理によって証明される。故に、もしそのようであるならば、大過失があるべきであると知るべきである。諸の正理によって、証知し得る一切は、更に説く必要がない。故に彼の説くところは、釈難を成さない。しかし上に述べたところの、経典が別に説かない「老死に果があり、無明に因がある」という主張は、生死に終始があることになってしまうという難問は、理に適わない。経文の意図は別にあるため、また説かれた理が不円満であるわけではない。なぜならば、この経典はただ教化すべき者の三際に対する愚痴を除くためである。教化すべき者が生じる疑いは「如何にして有情は三世に連続するのか、前世から今世を得て生じ、今世また後世を生じ得るのか」という点にのみあるからである。

釈:このような理によって証明される故に、もしそのように不如理作意を無明の因と説くならば、大過失があると知るべきである。一切は如理作意によって証知し得る故、更に説く必要はなく、故に彼の説く不如理作意を無明の因とする主張(取支に属する見解)は、我々の法釈義に対する障礙とは成り得ない。しかし前述の主張「経典が老死後に果あり、無明前に因ありと説くならば生死に終始が生じる」という難問は理に適わず、経典の意図もそうではなく、経説の理も不円満ではない。なぜならこの経典は、教化対象の三際に対する愚痴を除くためであり、教化対象が「有情が如何にして三世連続し、前世から今世を得て、今世また後世を生ずるか」という疑いのみを抱くからである。

原文:如来はただ彼らの疑いを除くため、十二支を説かれた。前に弁じた如く、前後中際を説くのは他者の愚惑を払うためである。世尊が比丘たちに告げられた如く「我は汝らに縁起法と縁已生法を説かん。この二つに何の差異があるか」と。本論の文によれば、この二つに差異はない。一切の法を摂する故に。如何にして未来に未だ生起せざる法が、過去現在と同様に縁已生と説かれ得るか。如何にして未来に未だ作られざる法が、過去現在と同様に有為と説かれ得るか。

釈:如来はただ彼らの疑いを除くため、前に弁じた前後中際の十二支縁起法を説かれた。例えば世尊が比丘たちに「縁起法と縁已生法の差異を説く」と宣言された際、本論では両者に差異がないとされる(一切法を摂する縁起法であるため)。未来の未生法が如何にして過去現在の已生法と同様に縁已生と説かれ、未作の法が如何にして有為法と称され得るかという問題について、能作の思力によって既に造作された故に有為と説かれる。もし無漏法であれば如何に有為となり得るかという問いに対し、それも善思力によって造作された故に、涅槃を得ることも理に適い、実際に有為と説くべきである。種類に依って説くべきであり、未だ変壊せざる法も色名を得る如く、種類が同じ故に説き方に過失はない。

原文:能作の思力によって既に造作された故である。もしそうなら無漏も如何にして有為となるか。それも善思力によって造作された故である。もしそうなら涅槃を得ることも理に適う。理の実相に照らせば、種類に依って説くべきである。未だ変壊せざる法も色名を得る如く、種類が同じ故に説に過失はない。

——生如法師の開示
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