(六)原文:余の釈に言う。余の契経には、非理作意を無明の因と説く。無明はまた非理作意を生ず。非理作意もまた取支に摂せられる。故にこの契経中にも説かれる。この非理作意は、如何にして取支に摂せられるか。若しこれが彼と相応する故にというならば、愛と無明もまた彼に摂せられるべきである。仮に彼に摂せられると許すならば、如何にして非理作意が無明の因であることを証明できようか。若しただ彼に摂せられるだけで因果を証するならば、愛と無明も彼に摂せられる故に、別に縁起支として立てるべきではない。
釈:ある他の解釈によれば、他経典では不如理作意を無明の因とし、無明が再び不如理作意を生じると説く。不如理作意は取支に摂される法であるため、この経典でも不如理作意を説いている。この不如理作意が何故取支に摂されるのか。もし不如理作意が取と相応するからだというなら、愛と無明支も取支に摂されるべきである。もし愛と無明が取支に摂されると認めるなら、どうして不如理作意が無明の因であると証明できようか。ただ取支に摂されるだけで因果を証得するなら、愛と無明も取支に摂されるため、別に縁起支として立てる必要がなくなる。
原文:また余の釈に言う。余の契経には、非理作意を無明の因とし、無明が再び非理作意を生じると説く。非理作意は触時に説かれる。故に他経には「眼と色を縁として痴が生じ、生じた染汚の作意」とある。これは受位において必ず無明を引く。故に他経に「無明触によって生じた諸受を縁として愛が生ず」と説かれる。故に触時、非理作意は受と共に転じ、無明を縁とする。この無明によって、無因の過ちはなく、また余の縁起支を立てる必要もない。縁起支に無限の過失はない。非理作意は痴から生じる故である。
釈:更に他の解釈によれば、他経典では不如理作意を無明の因とし、無明が再び不如理作意を生じ、不如理作意は触の時に現れると説く。故に他経では「眼と色を縁として愚痴が生じ、それによって染汚した作意が生じる」とあり、この染汚作意は受位において必然的に無明を引き起こす。従って他経では「無明触から生じた諸受を縁として愛が生じる」と説かれる。故に触の時、不如理作意は受と共に作用し、全て無明を縁とする。無明がある故に無因の過失はなく、他の縁起支を立てる必要もない。縁起支に無限連鎖の過ちはない、なぜなら不如理作意は愚痴無明を縁として生じるからである。
原文:契経に説かれる如く「眼と色を縁として痴が生じ、生じた染汚の作意」と。他経にこのような確かな言葉があるにも拘わらず、この経中で更に説く必要がある。如何なる理によって証知されるかを説く必要はない。理によって証知される。どのような理か。無明を離れて受が愛の縁となることはない。阿羅漢の受は愛を生じない故に。また倒錯のない触が染汚の受の縁となることもない。無明を離れて触が倒錯となることもない。阿羅漢の触は倒錯ではない故に。
釈:経典に説かれる如く「眼と色を縁として愚痴が生じ、それから染汚作意が生じる」とある。他経典にこのような確かな記述があるが、本経典では更に説明を加える必要がある。無明が不如理作意を生じることを如何にして証知するか。理によって証知される。理とは何か。無明を離れた受が愛の縁となることはない。阿羅漢は無明を離れている故に、その受は染汚の愛を生じない。また倒錯のない触が染汚の受の縁となることもない。触が倒錯である故に受が染汚となるのであり、無明を離れて触が倒錯となることもない。無明を伴う触こそが倒錯であり、阿羅漢には無明がない故に、その触は倒錯ではなく、生じる受も染汚ではない。
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