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日常開示

2021年03月20日    土曜日     第2 回の開示 合計3210回の開示

阿毘達磨倶舎論 第九巻

(六)原文:余の釈に言う。余の契経に説く。非理作意は無明の因と為す。無明は復た非理作意を生ず。非理作意も亦た取支に摂せらる。故に亦た此の契経中に説く。此の非理作意、如何にして取支に摂せらるるや。若し此れにより彼と相応するを言わば、則ち愛と無明も亦た彼に摂せらるべし。設い彼に摂せらるるを許さば、如何にして能く非理作意を無明の因と証せん。若し但だ彼に摂せらるる即ち因果を証せば、愛と無明も亦た彼に摂せらるるが故に、応に別に縁起支と立てずべし。 

釈:余の解釈に曰く、他の契経において、不如理作意は無明の因であり、無明は再び不如理作意を生じると説かれる。不如理作意は取支に摂せられる法であるため、この契経においても不如理作意が説かれる。この不如理作意が何故取支に摂せられるのか。もし不如理作意が取と相応する故であると言うならば、愛と無明支もまた取支に摂せられるべきである。もし愛と無明を取支に摂せられると許容するならば、如何にして不如理作意が無明の因であることを証明できようか。ただ取支に摂せられるというだけで因果を証明するならば、愛と無明も取支に摂せられる故に、別に縁起支として立てる必要がなくなるべきである。

原文:余の釈に復た言う。余の契経に説く。非理作意は無明の因と為す。無明は復た非理作意を生ず。非理作意は触時に在りと説く。故に余経に説く。眼と色を縁として痴を生ず。生じたる所の染濁の作意。此れ受位に於いて必ず無明を引く。故に余経に言う。無明触によりて生ずる所の諸受を以て縁として愛を生ず。是の故に触時に、非理作意は受と倶に転ず。無明を縁と為す。此の無明によりて、無因の過無し。亦た余の縁起支を立てるを須いず。又た縁起支に無窮の失無し。非理作意は痴より生ずるが故に。 

釈:更に他の解釈に曰く、他の契経では不如理作意が無明の因であり、無明が再び不如理作意を生じ、不如理作意は触の時に現れると説かれる。故に他の経典では、眼と色を縁として愚痴が生じ、その愚痴から生じた染濁の作意が、受位において必然的に無明を引き起こすとされる。従って他の経典では、無明触によって生じた諸受を縁として愛が生じると説かれる。故に触位において、不如理作意は受と共に作用し、全て無明を縁とする。無明支が存在する故に無因の過失はなく、他の縁起支を立てる必要もない。また縁起支が無限に続く過失もない、なぜなら不如理作意は愚痴無明を縁として生じるからである。

原文:契経に説く如く。眼と色を縁として痴を生じ、生じたる所の染濁の作意。余経に此の如き誠言有りと雖も、然れども此の経中に応に更に説くを須う。更に説くを須いずして如何にして証知するや。理によりて証知す。何等を理と為す。無明を離れずして受が能く愛の縁と為る。阿羅漢の受は愛を生ぜざるが故に。又た無倒の触に非ずして能く染受の縁と為る。亦た無明を離れずして触は倒錯と成る可し。阿羅漢の触は倒錯に非ざるが故に。 

釈:経典に説かれる如く、眼と色を縁として愚痴無明が生じ、その愚痴無明から染濁の作意が生じる。他の経典にこのような真実の言葉があるが、この経典では更に説明を加える必要がある。更なる説明無しに如何にして無明から不如理作意が生じることを証明できようか。理によって証知するのである。何を理とするか。無明を離れずに受が愛を生じる縁となる、阿羅漢は無明を離れている故にその受は染汚の愛を生じない。また倒錯の無い触が染汚の受の縁となることはなく、無明を離れずに触が倒錯となるのである。阿羅漢は無明を持たない故に、その触は倒錯ではなく、生じる受も染汚ではない。

——生如法師の開示
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