(五)原文:もし縁起支が唯十二支のみであるならば、老死の果を説かずして生滅には終わりあるべきであり、無明の因を説かずして生滅には始めあるべきである。あるいは更に余の縁起支を立てるべきであるが、余にはまた余があり、無窮の過失を成す。更に立てるべからず、然れども前に過失なし。此の中で世尊は義によって既に顕わしたまえり。如何にして既に顕わしたまえるか。頌に曰く「惑より惑業を生じ、業より事を生じ、事より事惑を生ず。有支の理は唯此なり」と。
釈:もし縁起支が十二支のみであるなら、老死の果を説かなければ生滅には終結すべき時があり、無明の因を説かなければ生滅には開始すべき時がある。あるいは更に他の縁起支を設立すべきであるが、その他にまた他の支があり、これでは無限の過失が生じる。故に更に他の支分を立てるべきではなく、これにより先の過失は存在しない。この道理を世尊は義理によって既に示された。どのように示されたかというと、頌に「無明の惑から惑業が生じ、業から事象が生じ、事象から再び惑が生じる。これが縁起有支の道理である」とある。
原文:論に曰く「惑より惑を生ずとは愛が取を生ずるを謂い、惑より業を生ずとは取が有を生じ無明が行を生ずるを謂う。業より事を生ずとは行が識を生じ、及び有が生を生ずるを謂う。事より事を生ずとは識支より名色を生じ、乃至触より受支を生じ、及び生支より老死を生ずるを謂う。事より惑を生ずとは受が愛を生ずるを謂う。有支を立てるにより、その理は唯此のみ。既に老死を事惑の因として顕わし、及び無明を事惑の果として示す。無明と老死は事惑の性なるが故に、豈に更に余の縁起支を仮設せんや。故に経に「かくの如きは純大苦蘊の集なり」と説く。もし然らざれば、此の言何の用あらん。
釈:論釈において、惑から惑が生じるとは愛が取を生む過程を指し、惑から業が生じるとは取が有を生み無明が行を生む過程を指す。業から事象が生じるとは行が識を生じ、有が生を生む過程を指す。事象から事象が生じるとは識支が名色を生じ、触が受を生じ、生支が老死を生む過程を指す。事象から惑が生じるとは受が愛を生む過程を指す。有支を立てる道理は唯これのみである。既に老死を事惑の因として示し、無明を事惑の果として示した。無明と老死は本来事惑の性質を具える故、更に他の縁起支を設ける必要はない。故に経文に「これ純粋なる大苦の蘊りが集起する所以である」とある。もしそうでなければ、この言葉は何の役に立つだろうか。
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