衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2018年08月18日    土曜日     第1 回の開示 合計791回の開示

知見は煩悩を防げず、ましてや生死をも防ぐことはできません

陽炎観を証得した時、あらゆる境界に遭遇しても、根本的に思惟を用いる必要なく、直接に通り過ぎる。真に我見を断じた時、禅定力が充足しており、これまた思惟を用いず、直接に境界を空じ去り、これらの所謂る境界を正視することはない。

解悟した者が慢心を加えると、境界に遭遇した際、凡夫の煩悩よりも重いかもしれない。

ここに見えるように、意根の証得と意識の解得は、同日の談ではない。禅定有りと無きとの間の差異は、極めて甚だ大きい。実修とは何を修めるか、我々は知るべきである。

真に如何なる法を証得するに際しても、禅定力を有する状況下では、あらゆる問題は問題ではなく、あらゆる事柄は事柄ではない。一旦禅定を失えば、最早言うに及ばず、大水は堤防を決壊させ、煩悩の堤を押し流すかもしれない。

修有りや無きやは、事柄の上に見られ、口中の言語の上に見るものではない。言語は高邁に語り得るも、行いは卑劣下劣であり得、差異はかくの如く大きい。言語文字は意識に相応するが、これは修行を代表せず、行為が直接意根に相応する時、初めて修行を代表する。故に修行とは即ち意根を修めることにあり、意根に修到せざる時は、真の修行ではない。全ての知見は稍々大なる煩悩の前、特に生死の前には無力であり、知見は根本的に煩悩を防ぎ得ず、まして生死を防ぐことなど更に叶わない。

——生如法師の開示
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