衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年03月19日    金曜日     第2 回の開示 合計3205回の開示

阿毘達磨倶舎論 第九巻

(四)原文:如何なるが有情の前際に対する愚惑か。謂く、前際においてこのような疑いを生ずることを。我は過去世において、曾て有りしか非有りしか。何等我が曾て有りしものか。如何にして我曾て有りしや。如何なるが有情の後際に対する愚惑か。謂く、後際においてこのような疑いを生ずることを。我は未来世において、当に有るべきか非有るべきか。何等我が当に有るべきか。如何にして我当に有るべきや。 

釈:有情衆生が前際の法に対する愚惑とは何か。有情が前際の法に対してこのような疑いを生じる。我は過去世において曾て存在したのか否か。どのような法を我曾て有したか。何故我曾て有したのか。有情衆生が後際の法に対する愚痴と惑いとは何か。有情衆生が後際の法に対してこのような愚痴を生じる。我は未来世において存在すべきか否か。我が有すべき法は何か。何故我は有すべきなのか。 

原文:如何なるが有情の中際に対する愚惑か。謂く、中際においてこのような疑いを生ずることを。何等我なるか。この我は如何なるものか。我は誰の所有か。我が当に有すべきは誰か。このような三際の愚惑を除くが故に、経は唯だ有情の縁起を説く。次第の如く無明・行、及び生・老死、並びに識より有に至るを説く。所以は如何に。契経の説く所に依れば、苾芻よ、諦聴せよ。若し苾芻有りて、諸々の縁起及び縁已生の法に対し、能く如実の正慧を以て観見する者は、彼は必ず三際に対する愚惑を生ぜず。謂く、我は過去世に曾て有りしか非有りしか等。 

釈:有情衆生が中際の法に対する愚痴とは何か。有情が中際の法に対してこのような疑いを生じる。どの法が我なのか。この我はどのような存在か。我は誰に属するのか。我が将来有すべき存在は誰か。これらの三際の愚惑を断つため、経典では有情の縁起のみを説き、順序に従って無明・行、生・老死、及び識・名色・六処・触・受・愛・取・有を説く。何故か。経典に「比丘よ、よく聞け。もし比丘が一切の縁起法と諸縁によって生じた法を、如実の正しい智慧で観察するならば、その者は過去・現在・未来の三世に対する迷いを生じない。例えば『我は過去世に存在したか否か』などの疑惑は消滅する」とある。 

原文:余の師は説く。愛・取・有の三つも、また他者の後際に対する愚惑を除くためなり。此の三つは皆後際の因なるが故に。又知るべし。此の縁起門の説は、十二支有れども、三と二を性とす。三とは惑・業・事を謂い、二とは果と因を謂う。其の義如何。頌に曰く。三煩悩・二業・七事。亦名けて果と為す。略果及び略因。中由りて二を比すべし。 

釈:他の論師は、愛・取・有の三支も有情の後際に対する迷いを除くと言う。これら三支は全て後際の因となるためである。また、この縁起の教えは十二支から成るが、その本質は三種(惑・業・事)と二種(因と果)に分けられる。三とは煩悩(惑)・業・事を指し、二とは果と因を指す。この意味は何か。偈頌に「三つの煩悩、二つの業、七つの事、これらを果とも称す。略された果と略された因、中際を通じて二つを推し量ることができる」とある。 

原文:論に曰く。無明・愛・取は煩悩を本性とす。行及び有支は業を本性とす。余の識等七支は事を本性とす。是れ煩悩と業の依り所となる事柄なるが故に。此の如き七つの事柄は即ち亦た果と名づく。義より推せば、残る五支は即ち亦た因と名づく。煩悩と業を自性とするが故に。 

釈:論では、無明・愛・取の三支は煩悩を本質とし、行と有支は業を本質とし、残る識・名色・六処・触・受・生・老死の七支は事象を本質とする。これら七つの事柄は煩悩と業が依拠する対象であるため「果」と呼ばれる。同様に残る五支(無明・行・愛・取・有)は「因」と呼ばれる。これらは煩悩と業を本質とするためである。 

原文:何の縁由で中際においては広く果と因を説くか。事を五つに開き、惑を二つとするが故に。後際は略された果、事は唯二つのみ。前際は略された因、惑は唯一つなるが故に。中際の広説によって、前後二際を推し量ることができる。広義は既に成ったれば、故に別に説かず。説くも用無きが故なり。 

釈:何故現世(中際)では因果を詳細に説くのか。事象を五支(識・名色・六処・触・受)に分け、煩悩を二支(愛・取)とするためである。未来(後際)は略された果(生・老死の二支)、過去(前際)は略された因(無明一支)である。現世の詳細な説明を通じて、過去と未来の構造を推測できる。詳細は既に明らかであるため、改めて説く必要はない。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

修行の最優先目標は受を断ずることではありません

次の記事 次の記事

確信することは真に疑いがないことなのでしょうか

ページのトップへ戻る