(四)原文:如何なるが有情の前際に対する愚惑か。謂く、前際において、このような疑いを生ず。我は過去世において、かつて有りしか、非有りしか。何等我が曾有りしか。云何我が曾て有りしか。如何なるが有情の後際に対する愚惑か。謂く、後際において、このような疑いを生ず。我は未来世において、当に有るべきか、非有るべきか。何等我が当に有るべきか。云何我が当に有るべきか。
釈:有情衆生が前際の法に対して抱く愚惑とは何か。有情が前際の法についてこのような疑問を生じる。私は過去世において存在したのか、しなかったのか。どのような法を私はかつて有したのか。なぜ私はかつて有したのか。有情衆生が後際の法に対する愚痴と惑いとは何か。有情衆生が後際の法についてこのような愚痴を生じる。私は未来世において存在すべきか、すべきでないか。私はどのような法を有すべきか。なぜ私は有すべきなのか。
原文:如何なるが有情の中際に対する愚惑か。謂く、中際において、このような疑いを生ず。何等が我か。この我は如何なるものか。我は誰の所有か。我は当に誰を有つべきか。このような三際の愚惑を除くが故に、経には唯だ有情の縁起を説き、次第に無明・行、及び生・老死、並びに識より有に至るを説く。所以は如何。契経に説く、苾芻よ、諦聴せよ。若し苾芻有りて、諸々の縁起及び縁已生の法に対し、能く如実の正慧をもって観見するならば、彼は必ずや三際に対する愚惑を生ぜず。謂く、我が過去世において有りしか非有りしか等。
釈:有情衆生が中際の法に対する愚痴とは何か。有情が中際の法についてこのような疑問を生じる。どの法が私なのか。この私はどのようなものか。私は誰に属するのか。私が未来に有すべきものは誰か。これらの三際の愚惑を除くため、経典では有情の縁起のみを説き、順を追って無明・行、生・老死、さらに識・名色・六処・触・受・愛・取・有を説く。なぜか。契経に「比丘よ、よく聞け。もし比丘がすべての縁起法、諸縁によって生じた法を、如実の正しい智慧で観察するなら、彼は三際に対する愚惑を決して持たない。すなわち『私は過去世に存在したのか、しなかったのか』などという疑いが消滅する」とある。
原文:余師は説く、愛・取・有の三つもまた、他の有情の後際の愚惑を除くためであると。此の三つは皆、後際の因であるが故に。また知るべき、この縁起の教えは十二支あるも、三と二を性とする。三とは惑・業・事を指し、二とは果と因を指す。その義は如何。頌に曰く。三煩悩・二業・七事。亦た果と名づく。略された果と略された因。中際によって二つを比べ知るべし。
釈:他の論師は、愛・取・有の三支も有情の後際に対する愚惑を除くと説く。これら三つはすべて後際の因であるため。また、この縁起の法門は十二支あるが、三種(惑・業・事)と二種(因・果)に分類されることを知るべき。愛は煩悩の惑、取は煩悩の業、有は煩悩の事。二種とは業の果と因を指す。この意味について頌では「三つの煩悩、二つの業、七つの事、これらも果と呼ばれる。略された果と略された因は、中際によって二つに比定できる」と説く。
原文:論に曰く。無明・愛・取は煩悩を性とす。行及び有支は業を性とす。残りの識等七支は事を性とす。是れ煩悩と業が依り所とする事柄であるが故に。此の七事も亦た果と名づく。義より推せば残り五支は即ち因と名づく。煩悩と業を自性とするが故に。
釈:論では、無明・愛・取の三支は煩悩を本質とし、行と有支は業を本質とする。残りの識・名色・六処・触・受・生・老死の七支は事象を本質とし、煩悩と業が依存する事柄である。この七事も果と呼ばれ、同様に残り五支(無明・行・愛・取・有)は因と呼ばれる。それらが煩悩と業を本質とするためである。
原文:何の故に中際では果と因を広く説くのか。事を開いて五支とし、惑を二支とするが故に。後際は果を略し、事は唯二つ。前際は因を略し、惑は唯一つ。中際の広説によって、前後二際を推し量ることができる。広義が既に成立している故に、別に説かず。説いても用無し。
釈:なぜ中際(現世)では因果を詳細に説くのか。事象を五支(名色・六処・触・受・識)に分け、煩悩を二支(愛・取)とするため。後際は果を簡略化し、事象は生・老死の二支のみ。前際は因を簡略化し、煩悩は無明一支のみ。中際の詳細によって前後二際を推測できる。広範な教義が既に明らかであるため、重ねて説く必要はない。説いても益がないからである。
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