一部の人々は、受覚を断つことが悟りの根拠や証しであると思いがちですが、実際には受覚を制伏し断つことは主に深甚な禅定に依るもので、悟りを得ているかどうかに関わらず、深い禅定があれば受覚を断つことが可能です。四禅八定の外道でもこれを成し遂げられます。初禅定では受覚を断つことさえできず、初禅定における受覚は楽受に過ぎず、単に快い感覚を覚えるだけで、依然として一種の覚受です。一切の受覚を断つには受陰が尽きるまで修めなければならず、四禅以上の定によって色陰を断尽した後、初めて受陰を断じて受陰尽を証得し、その後に想陰・行陰を断じます。解脱を得るに当たって受覚を断じる必要はなく、覚受に執着しなければ解脱できます。覚受を断じることは修行の首要目標ではなく、無始劫以来の錯見邪見、すなわち五陰を我と見なす我見を断じることが最優先です。我見を断じて我見の束縛から解かれれば、初歩的な解脱を得られ、その後の修行は正道を歩むことになります。
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