ある人々はこのような経験を持っています。ある問題について意識が理解できない場合、一時的に疑問を保留にし、しばらく経ってから突然頭に思い付きが浮かび、その問題を理解して疑問が解消されることがあります。頭に浮かんだ思い付きは意根が示した答えであり、まだ完全に究極的なものではない可能性があるため、意識がそれを基に再び仔細に思惟する必要があります。故に意識はある問題について表面的には思考を止めたように見えますが、実は意根は放棄しておらず、常に思量し続けています。意識が提供するデータが不十分であるため、意根は最終結論を導き出せませんが、少なくとも方向性と手掛かりを得ています。意識だけが怠惰になることはあっても、意根が怠惰になることは決してありません。従って修行においては絶えず意識を激励し、思惟観行を重ね、データを蓄積し資料を収集し、意根がより多くの証拠を掌握できるようにすれば、悟りの証得は早まります。
意識が思考していない時、あるいは他の事柄に従事している最中に突然答えが得られる場合、意識は思惟していませんが、それは意根が思考を重ねた後の暫定的な結論です。何故突然答えが現れるのでしょうか。意根の思量作用は意識では全く観察できないため、意根が理解した時に初めて意識が気付き、意識は突然理解したと感じ、心に驚きを覚えるのです。もし意識が継続的に思考を続けていた問題であれば、それは連続的で徐々に理解が進むため、突然性を感じず驚きも奇怪さも生じません。心理的な準備が整っているからです。
これらの思惟方法と過程を掌握し活用できるようになれば、仏法修証の鍵を手中に収めたことになります。論理的思惟能力が向上し、今後仏法の修証が急速に進展するでしょう。
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