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日常開示

2021年03月18日    木曜日     第1 回の開示 合計3199回の開示

阿毘達磨倶舎論 第九巻

(三)原文:また諸の縁起は、差別して四種を説く。一には刹那、二には連縛、三には分位、四には遠続なり。何を刹那と云う。刹那の間に貪りを行じて殺生をなす、十二支を具足するを謂う。痴は無明と謂い、思は即ち行なり。諸の境事に於いて了別するを識と名づく。識と倶なる三蘊を総称して名色と為す。名色の根に住するを六処と説く。六処が余と対し和合して触有り。触を領するを受と名づく。貪は即ち愛なり。これに相応する諸の纏を取と名づく。起こす所の身語二業を有と名づく。かくの如き諸法の起るを生と名づけ、熟変を老と名づけ、滅壊を死と名づく。また説く者有り、刹那連縛は『品類足論』の如く、倶に有為の十二支位に遍く、所有の五蘊は皆分位に摂す。即ちこの懸遠にして相続無始なるを遠続と説く。

釈:一切の縁起法はその差別に依って四種を説く。第一は刹那、第二は連縛、第三は分位、第四は遠続なり。刹那とは何か。刹那の間に貪りの心によって殺生の業をなす時、この業行が十二有支を具足することを指す。痴は無明、思は行なり。六塵の境界に対する了別を識と為す。識に伴う受・想・行の三蘊を総じて名色と称す。識の住する所を有色根と為し、色識の和合に六処有り。六処が六塵と対し和合して触有り。触を領納するを受と為す。受の時に生ずる貪りを愛と為す。貪愛に相応する煩悩の纏縛を取と為す。取の後に生起する身と言語の二業を有と為す。かくの如く一切の法が生起するを生と為し、生じた法が成熟変異するを老と為し、滅壊するを死と為す。また一説有り、刹那と連縛は『品類足論』に説かれる如く、有為の十二支位に遍く、所有の五蘊は皆分位に摂せられる。遥かなる無始劫より相続して今に至るを遠続と為す。

原文:世尊此の意に於いて何を説きたもうや。頌に曰く「伝えに許す、位を約して説き、勝に従いて支名を立つ」と。論に曰く、伝えに世尊は唯だ分位を約して諸の縁起に十二支有りと説きたもう。若し支支の中に皆五蘊を具せば、何の縁りに但だ無明等の名を立つるや。諸位の中に無明等勝なるが故に、勝に就きて無明等の名を立つ。謂わく、若し位の中に無明最も勝ずれば、この位の五蘊を総じて無明と名づく。乃至び位の中に老死最も勝ずれば、この位の五蘊を総じて老死と名づく。故に体は総なりと雖も、名に別有るは失無し。

釈:世尊はこの見解を如何に看做したもうか。頌に「伝承によれば位次に依って分類説を許し、勝義究竟義に従って十二支分の名を立てる」と。論説によれば、世尊は分位に依ってのみ諸縁起に十二支有りと説きたもう。各支が五蘊を具えるなら、何故に無明等十二の名のみを立てるのか。諸位の中で無明が最勝であるが故、最勝に依って無明等の名を立てる。即ち、無明が最勝である位では、その五蘊を総じて無明と称し、老死が最勝である位では、五蘊を総じて老死と称す。故に十二支の体は総説なりと雖も、名称に差異有るは過失ならず。

原文:何の縁りに経に説く、この十二支は『品類足論』の説く所と異なるや。彼の論に説く如く「何を縁起と為す。一切の有為を謂う」乃至広説。素怛纜の言は、別の意趣に因り、阿毘達磨は法相に依って説く。かくの如く分位・刹那・遠続・連縛を宣説するは、唯だ有情数のみ。情と非情等は是れ差別と謂う。契経は何の故に唯だ有情を説くや。頌に曰く「前後中際に於いて、他者の愚惑を遣わすが為なり」と。論に曰く、三際の中に於いて他者の愚惑を遣わす。三際の差別は唯だ有情に在り。

釈:何故に経典ではこの十二支が『品類足論』と異なる説き方をするのか。『品類足論』では「縁起とは一切の有為法を指す」と広説する。阿毘達磨は法の相に依り、一切法生起の因を差別的に説く。この様に縁起法の分位・刹那・遠続・連縛を説くのは有情のみに存在する差別である。有情と非情の差別相を指すが、何故経典では有情のみを説くのか。頌に「前際・後際・中際において、他者の愚痴迷惑を除くため」と。論説によれば、三際の差別は有情にのみ存在し、非情には差別無きが故なり。

——生如法師の開示
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