定とはどのような状態か。例えばぼんやりと放心している状態、その時、意識心は一つの境に専注し、一境に定まって動かず、表面的な思考作用はなく、法塵が深く意根に植え付けられる。意根は強制的に主要な精力をこの法塵の境界に注がざるを得なくなり、深く思量せざるを得ない。こうして智慧が開かれ、この法塵境界の根源と本質を明らかに理解できる。これは意識と意根が共同で作用した結果である。意識が深く微細に思考し、意根が精神を静めて思考を助け、自ら思量に参与することで、定慧が現前するのである。
世俗法においても多くの場合同様である。解決すべき重大な問題に遭遇した時、意識は放心状態に陥り、思考に専念し、意識の動きを少なくし、分析や感情的な理解を減らす。心の奥底つまり意根がこの重大事を懸念することで、物事を明瞭に考え抜き、問題解決の方法が生まれる。放心して集中する定力を延長すればするほど良く、意根に深く入れば入るほど良く、意識の思考が少なければ少ないほど良い。時節因縁が具われば、いかなる法も証得できない道理はない。
なぜ経典や法義が理解できず、他人の言語や心理が分からない者がいるのか。それは禅定が不足し、智慧が開けるに足りないからである。禅定が不足するのは、つまり福徳が欠けているため、心が浮つき、思考が浅薄だからである。
放心状態は空ではなく、一念も生じない空無状態でもなく、ぼんやりした状態でもない。深い思想活動があり、公案参究に類似し、法義を深く究明する。放心時には、できれば意根を明らかにし、意根の心理活動を引き出したい。
問題に遭遇した時、目をぱっと見開いて動かさず、意識は即座に定まり、まっすぐになる。脳の奥底では回転し、思考し、非常に深く、極めて秘やかである。表面的には思考せず、思想がないように見えるが、実は深層で活動しており、表には現れない。これは意根に深く入り、意根を動員し、意識の分析を減らし、意根が多く心を用い、自ら法を縁とすることで、智慧の潜在能力が発揮される。これが参究の原理である。
ある者は定とは何かを理解せず、修定もできず、意根を使えない。今後は意識の浅薄な思考を減らし、意根に多く思考に参与させるべきである。これを参究と言い、智慧は必ず開発される。五蘊を思惟すれば我見を断じ、禅を参究すれば明心して悟りを証し、仏性を参究すれば如幻観を証得し、七識の幻化を観行すれば陽炎観を証得し、万法が夢幻泡影の如きを観行すれば夢幻観などを証得する。あらゆる観行は現量観、現量証であって、決して情思意解や想像ではない。
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