衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年12月13日    木曜日     第1開示 合計1095開示

軽慢心の果報

人が心の中に軽慢の心を持つとき、口から発せられる言葉だけでなく、それが悪業の種子となって将来悪報を受けるとともに、軽慢を表す表情もまた業種となり、将来それによって悪報を受けなければならない。さらには心の中の覚観(vitarka-vicāra)の考え方さえも種子として蔵され、将来それによって悪報を受けることになる。心地が染汚されれば、業種も清浄(viśuddha/pariśuddha)ではなくなるからである。

自分に軽慢の心が現れたことがあるなら、どのような形であれ、速やかに懺悔すべきである。後世に悪報を受けないためには、どれほど大きな代償を払って挽回したとしても値する。さらに軽慢の心よりも深刻な心行もあり、それはなおさら懺悔すべきで、後世の大きな悪報を免れるためである。たとえば欺瞞と嘘、故意の欺きと悪意ある嘘は、いずれも速やかに懺悔すべきである。小さな因が大きな果を得る。これらのことは決して戯れごとではなく、果報は虚しくない。

昔、一人の小沙弥がある出家の師について、食事をする様子が牛が草を噛むようだと語ったところ、五百世のあいだ牛になった。出家者が出家者の口業を語るだけであれほど深刻なのだから、まして在家者が出家者の口業を語るなら、なおさら深刻である。誰もが自分を省みて、少しでも過ちがあれば懺悔しなければならない。そうしなければ、将来報いを受けてから悔いても及ばない。現在、三宝を誹謗する人は非常に多く、少なくない。しかも堂々と、公然と、理屈を振りかざして、道理が通じず、思議できないほどである。こうした人々は地獄に堕ちて報いを受ける可能性がある。もし神通があって地獄を一回歩いて来ることができれば、地獄の衆生はみな殺人や放火の輩ばかりではなく、学仏する衆生で大きな悪業を造って行った者がかなりいることがわかる。当時は自分が悪業を造っていることを知らず、善業だと思い込んでいる者もいれば、何もないと思っている者もいる。こうした人々の中には、自分は修行がかなり良いと思い込んでいる者が少なくない。

貪・瞋・痴の煩悩が断除されていないかぎり、悪業を造る可能性がある。とりわけ学仏の人は、自分が信頼する人に煽られて頭が熱くなると、どんなことでもやりかねず、大丈夫だと思い込み、将来の果報が極めて重いことを知らない。世間で尊貴であるほど、衆生にとって最も有益であるほど、それに対して悪業を造れば、罪業は大きくなる。学仏の人はまず因果をわきまえ、身口意行に注意して悪業を造らず、悪報を受けないこと、これが明智の人である。真に因果を理解できる者、真に深く因果を信受できる者は、ほぼ初地菩薩に達しようとしている者である。地前の菩薩は因果を完全には信受できないのだから、まして凡夫はなおさらである。如来蔵(tathāgatagarbha)を証得し、如来蔵の働きを現観できる人は、身口意行が刹那刹那にすべて如来蔵の中に存じ入れられ、一つも漏れがないことを知る。それゆえ果報は避けがたく、したがって侥幸の心理が生じないのである。

仏経に説かれる因果の事例をしばしば読めば、因果をより多く明らかにでき、身口意行が非常に慎重になる。頭がしばしば熱くなり、理性的でない人は、どこにでもいる。無始劫以来の悪習があまりに深重で、抑えるのが難しいのである。知っていることは知っているとし、知らないことは知らないとする。自分のわからないことについては、軽々しく口を開いて論評したり評価したりしてはならない。あまり自信過剰になってはいけない。自信過剰な人は往々にして損をし、それはすべて自分が自分に損をさせているのである。自信過剰な人は、すなわち「我」が強く、我執・我愛・我痴・我慢が深重で炽盛である。言い尽くせば、悪業を造り、悪報を受けるのは、やはり内心の「我」のせいである。あの我が降伏されていなければ、絶えず現れては悪業を造ることになる。

内心に優越感があるのは、我慢であり、我があるということである。内心でいかに微小な法であれ、それを我と認めるなら、それは我慢である。我慢は最も断りにくく、自分でも発見しにくい。あまりに習慣化しているため、往々にして自覚がなく、ごく自然に現れてしまうからである。大多数の人は非常に粗重な我慢を抱えているが、自分の慢心に気づける人は極めて少ない。定力が不足し、智慧が足りないため、自分の明らかな慢心も隠れた慢心も反観(pratyavekṣā-bala)できない。誰も注意してくれなければ、そのまま発展してしまうのである。

——生如法師の開示
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