衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年03月17日    水曜日     第2 回の開示 合計3196回の開示

僧の過ちを説くことは悪である

仏教は出家者が現れたその日より成立し、出家僧団が滅びれば仏教も滅ぶ。これは経典に基づくものである。剃髪し出家戒律を受けた者は全て三宝に属し、法を表す役割を果たし、仏教を代表する。その表し方如何は僧侶と僧団の内部の問題であり、外部の者が干渉する権利はない。

出家者には戒律と因果による規律があり、たとえ戒を犯しても在家が指摘することは許されない。故に仏は在家が出家者の戒律を知ることを禁じ、戒条に照らして出家者の言行を批判し、慢心を生じ、罪を挙げて出家者の過失を宣伝し、三宝を誹謗する悪業を造らせないためである。その果報は恐るべきものなり。出家者は僧団により管理され、僧団は出家者の過失と罪責を処理する。僧団のない場合、あるいは僧団が管理できない場合には護法神と因果が管理するが、在家に管轄権はなく、決して僧の過失を口にしてはならない。

出家者の自恣日には、自ら犯した戒律を挙げ、互いに犯した戒律と過失を指摘し合うが、在家が盗み聞きすることは許されない。もし盗み聞きする者がいれば、護法神が剣をもって首を斬る。これは在家に出家者の犯した戒行と過失を知らせ、非難や宣伝をさせないためである。もし在家が出家者の過失を指摘し宣伝すれば、事実の有無にかかわらず誹謗の悪業となり、命終後は三悪道あるいは地獄に堕ちる。悪業の大きい者は現世においても花報を受け、来世の果報を待たずに罰せられる。

ある者たちは出家者の非ばかりを見るが、出家者が捨てた世俗の利益をどうして見えないのか。たとえ出家者が頻繁に戒を破り悪を造ろうとも、在家の造る悪に比べ如何。在家は日々魚肉を食し、常に貪欲を断ち難く、相互に比較すれば誰の業が大きいか。それほど多くの者が自ら清らかと称するなら、なぜ出家して出家者の身分を得ないのか。出家は難しいか。難しくない。ただ世間の種々の貪欲と享楽に執着し、世間の利益を断ち難いが故である。そこで在家の身分を尊大とし、至る所で出家者と僧団を非難する。僧団がそれほど劣るなら、なぜ大いなる心を発して世間の貪欲を捨て、仏教と衆生と自らの永劫の道業のために勇敢に出家せず、出家の身をもって仏教と衆生を護ることがより有利ではないか。

仏在世時、提婆達多と善星比丘は如何なる悪を造ろうとも、仏と僧団によって管理され、他者が干渉する権利はなかった。もし仏が管えず、僧団が管えねば、因果が制裁し、生きながら地獄に堕ちる。仏在世時の六群比丘は無数の悪を造ったが、仏涅槃後も比丘であり続けた。仏涅槃時に六群比丘が酒を飲み肉を食し、大声で騒ぎ仏の涅槃を祝っても、仏は天人たちの耳目を覆って聞こえぬようにしたが、神通力で制裁することはなかった。

仏在世時は仏を大とし、仏涅槃後は戒律を大とする。戒律の勢力が大なる者を尊び奉る。戒を大とする表現は:第一に、出家者と在家は混住せず、戒律の異なる者は混住せず、たとえ出家者同士でも戒律に差異あれば混住しない。第二に、行住坐臥、仏事、布施の際は、先に戒を受けた者が前、後に受けた者が後となり、出家菩薩戒は在家菩薩戒に先立ち、在家菩薩戒は在家五戒八戒に先立つ。

——生如法師の開示
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