仏教は出家者が現れた日から成立し、出家僧団が滅びれば仏教も滅びる。これは仏典に基づくものである。剃髪して出家戒律を受けた者は全て三宝に属し、表法の役割を果たし、仏教を代表する。その表し方がどうかは僧侶と僧団の内部の問題であり、外部の者が干渉する権利はない。
出家者には戒律と因果律による規制があり、たとえ戒を犯しても在家の者が指摘することは許されない。故に仏は在家の者に出家者の戒律を知ることを禁じ、戒条を盾に出家者の言行を検証し慢心を生じ、罪を挙げて出家者の過失を宣伝し三宝誹謗の悪業を造らせないためである。その果報は恐るべきものだ。出家者は僧団によって管理され、僧団は出家者の過失と罪責を処理する。僧団がない場合、あるいは僧団が管理できない場合は護法神と因果律が管理する。しかし在家の者に管理する資格はなく、僧の過失を決して口にしてはならない。
出家者の自恣日には、自ら犯した戒律を申告し、互いに戒律違反と過失を指摘し合うが、在家の者が盗み聞きすることは許されない。もし盗み聞きすれば護法神が剣で首を斬る。これは在家の者に出家者の戒行と過失を知らせ、非難や宣伝をさせないためである。もし在家の者が出家者の過失を非難・宣伝すれば、事実の有無にかかわらず誹謗の悪業となり、命終後は三悪道または地獄に堕ちる。悪業が大きければ現世で花報を受け、来世の果報を待たずに報いを受ける。
ある者は出家者の非ばかりを見るが、出家者が捨てた世俗的利益はどうして見えないのか。たとえ出家者が頻繁に戒を破り悪を造っても、在家の者が造る悪の方が多いのではないか。在家者は毎日魚肉を食し、常に貪欲を断ち切れず、比較すればどちらの業が大きいか。それほど多くの者が自らを清らかと見做すなら、なぜ出家して出家者の身分を得ないのか。出家が難しいのか。難しくない。ただ世間の種々の貪欲や享楽に執着し、世間の利益を断ち切れないからだ。故に在家の身分を尊大とし、至る所で出家者と僧団を非難する。僧団がそれほど劣っているなら、なぜ大いなる心を発して世間の貪欲を捨て、仏教と衆生と自らの長劫の道業のために勇敢に出家しないのか。出家の身をもって仏教と衆生を護る方がより有益ではないか。
仏在世時、提婆達多と善星比丘は如何なる悪を造ろうとも、仏と僧団によって規制管理され、他者が干渉する権利はなかった。もし仏が管理できず、僧団が管理できなければ因果律が制裁し、生きながら地獄に堕ちる。仏在世時の六群比丘は無数の悪を造ったが、仏涅槃後も比丘であり続けた。仏涅槃時、六群比丘は酒を飲み肉を食し、大声で騒ぎながら仏の涅槃を祝ったが、仏は天人の耳目を掩うて聞こえぬようにしただけで、神通力で制裁しなかった。
仏在世は仏を大とし、仏涅槃後は戒律を大とする。戒律の勢力が大きい者を大とし尊ぶ。戒を大とする表現は:一、出家者と在家者は混住せず、戒律の異なる者は混住しない。たとえ出家者同士でも戒律に差があれば混住できない。二、行住坐臥、仏事、布施の際は、先に戒を受けた者が前、後に受けた者が後となる。出家菩薩戒は在家菩薩戒に先立ち、在家菩薩戒は在家五戒・八戒に先立つ。
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