初果に相応する我見を断つ観行は、未証果者でも理解可能であるため、多くの者が自ら観行を成就したと思い込み、我見を断ったと錯覚する。故に無我を理解すること即ち我見を断つことだと信じ、自ら証果を確認する者も現れる。これは過信に陥り、大妄語を犯す結果となり、その報いは甚大である。各人の過信は盲信に通じ、全て内心の我執が作用したもので、我執深き現れである。無我を理解するのは意識レベルの認識に過ぎず、解悟にも及ばず、意根の証悟とは雲泥の差がある。衆生の愚かしさはかくの如く、教化難く、真実を語れば聞かず、称賛して初めて喜ぶ。ある者は八果と称されれば狂喜し、如何なる真実も聞かぬ。貪瞋痴が凡夫以上に甚だしい者が、自ら二果と称する例もある。衆生は慢心を好み、救い難きことこの上なし。
他の法門もまた意根の証得を要し、意識的理解のみでは足りぬ。各種観行の成就とは証得を意味し、必ず意根の参与を伴い、即ち意根の証である。心奥底からの真実の理解、深き感得こそが、ある程度の証得と言え、事相の真実を認知し身心の変化を促す時、意根の部分的証得が成立する。証得と称する以上、必ずしも完全なるものではなく、程度と次元の差がある。意根を滅すれば仏成り難く、意根の無明を破する時、識は智と転じる。意根は永劫に滅すべからず、五蘊を保有してこそ成仏可能である。
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