衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年09月29日    土曜日     第1開示 合計855開示

一切法の証得はすべて現観の結果である

一切法の証得は、すべて現観の結果であるべきであって、想像や分析から導き出された結論ではありません。現観とは何でしょうか。現観とは現量観行、現前観行のことであり、六根が六塵に対するその時その場で、現前にさまざまな法の出生、運行、生滅変化を観察し体験することです。意識が現量の観察であるかどうか、思考から導き出された結論が事実であるかどうかについて、意根は絶えず判断を下さなければなりませんが、判断が正しいこともあれば、誤ることもあります。意根にもそれ自身の習気があり、さらに智慧が不足しているため、判断を誤りやすいのです。意根は往々にして、意識の現量の観察と十分な思考分析を認め、理にかなった根拠のある場合にこそ、意根の智慧を啓発することができ、意根ははじめてその思惟観行の結果を確認することができ、意識の非量の想像や推論はあまり認めません。意識の現量の観察こそが証拠であり、証拠が確かなとき、意根ははじめて決定を下して賛同するのです。

私たちは多くの場合、自分で自分を説得できないことがありますが、これはなぜでしょうか。意識には現量の観察がなく、証拠がないか証拠が不十分であるため、意根は意識が分析し思惟した合理性や正しさを認識できず、意識に説得されることができず、意識の分析の結果に従って決定を下すことができないからです。こうして意識は絶えず再び思惟し分析し推理を重ね、証拠が確かになり、意根が認めるまで続けなければならないのです。

もちろん、ここには意識の邪悪で誤った現量の観察も含まれますが、実際にはそれは非量でありながら、意根に認められることもあります。それは意根の無明と煩悩に合致するためで、意根は賛同しようとするのです。これは修行していない人です。意識が意根に対して邪教導を行うとき、意根は盲目の状態に置かれ、真実を知らず、当然のことと思い込んで非量を現量とし、想像したものを事実としてしまいますが、事実はそうではありません。しかし意根は時としてそれに随順して過ぎ去り、同意せざるを得ないこともあるのです。

——生如法師の開示
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