衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年09月30日    日曜日     第1 回の開示 合計856回の開示

参禅に必要な禅定

禅を参究するには色界の初禅定、あるいは初禅以前の未到地定が必要であり、そうして初めて真実心である如来蔵を参究し、破参して如来蔵を見いだすことができる。これは欲界第六層天の定に相応するもので、定が深すぎても浅すぎても、禅の本体を究めて如来蔵を見いだすことは困難である。定がさらに深まれば二禅に入り、目は色を見ず、耳は声を聞かず、五識がなくなり、ただ意根と意識心のみとなるため、身口意行の真妄和合において如来蔵を見いだすことができなくなる。深い禅定に入って如来蔵を探求することは容易ではなく、その時の意識心は微弱で鈍く、どのものが真実心である如来蔵かを見分けるのは困難である。またこの状態では身行と口行もなくなり、微細な意行のみとなるため、意識心が意行の上に真実心を見出すことは容易でなく、極めて難しい。如来蔵を見いだすのは身口意行が造作されるまさにその時、特に身行と口行の造作が行われる瞬間、真と妄が和合する時にこそ可能となる。

意識が微弱で意行が少ない時、如来蔵を見いだすのは困難であり、極めて優れた根器でなければ、深い定中で明心し悟りを開くことを期待すべきではない。定が浅すぎる、あるいは定がない状態では意識心が散乱し、心が粗雑となるため、智慧を開いて真実心を悟ることもできない。中間の未到地定や初禅定において、意識が散乱せず集中している状態であれば、一心不乱に至ることができ、そうして思惟が緻密になり、智慧を開きやすくなる。

悟りは意識による制心一処を離れることができず、専心致志の集中力も必要不可欠である。故に禅を参究して悟りを開くには、定が深すぎる状態でも、浅すぎる状態でも悟ることはできない。凝心一処・制心一処の禅定功夫を修得した後、なお知るべきは「この一処とは何処か」である。この時、参禅の方向性と着手処を知らねばならず、そうでなければ依然として悟ることはできない。何を悟るのか、悟りの標的が何であるかを知らねばならず、これを知らなければ依然として悟りを得る術はない。

明心した後、智慧が開けば、如来蔵がどのように五陰と七識の運作に参与しているか、身口意行がどのように造作されるかが分かり、如来蔵のいくつかの体性を観察できるようになる。その後はあらゆる事象が生起する因縁も理解できるようになる。この段階で甚深な禅定を修得していなければ神通力を得ることは不可能であり、世俗の秘密事を知ることもできない。悟りの境界と禅定の境界は異なり、両者を混同してはならない。一切を知ることは神通禅定の境界であり、悟りとは無関係である。虚空が粉砕し大地が平らになるのは禅定の境界であり、悟りの智慧の境界とは関係ない。

——生如法師の開示
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