衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年03月15日    月曜日     第2 回の開示 合計3188回の開示

真に法に依り人に依らず、仏にも依らぬ

《大宝積経》仏説入胎蔵会第十四原文:**仏は言われた。(如来)は道を知る者である。道を識る者である。道を説く者である。道を開く者である。大いなる導師である。如来・応正等覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊である。世間の人は無知で信なく、常に諸根の奴隷となり、ただ掌中の小さな利を見るだけで大いなる利を観ずることがない。容易なことを修めず、困難なことを恒常になす。難陀よ、止めよ。このような智慧の境界において、汝は今や肉眼の見る所をもって観察すべきである。見る所のものは全て虚妄であると知れば、即ち解脱と名づけられる。難陀よ、私を信じるな。私の欲に従うな。私の言葉に依るな。私の相を観るな。沙門の所有する見解に随うな。沙門に恭敬を生じるな。「沙門喬答摩は我が大師なり」と言うな。ただ我が自証の所得の法に於いて、独り静処に在りて思量観察し、常に多く修習せよ。用心に随って観ずる所の法、即ち彼の法において観想を成就し、正念に住せよ。自ら洲渚となり、自ら帰処となれ。法を洲渚とし、法を帰処とせよ。別に洲渚なく、別に帰処なし。**

釈:仏は説かれた。如来は修める道を深く知る者であり、道を説く者であり、修道の道を開く者であり、世間の大導師・如来・応正等覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊である。世間の人は無知で信根もなく、常に六根の奴隷となり、掌中の小利しか見えず、より大いなる利益を見ず、修道という容易なことを修めず、生死の苦業という困難なことを永遠に造作する。

難陀よ、まず止めて語るな。このような智慧の境界において、汝は今肉眼で見える法を観察すべきである。見る一切の法が虚妄であると知れば、これを解脱という。難陀よ、私の説を信じるな。私の考えに随順するな。私の言葉に依るな。私の相を観るな。沙門の見解に随うな。沙門を恭敬するな。「沙門喬答摩は我が大師なり」と言うな。ただ私が自証した所得の法について、独り静寂の地で思量観察し、常に多く修習せよ。観ずる所の法に心を尽くして修めれば、観想が成就する。自ら観想成就した法は自ら証得したものであり、以後は正念をもって法に住する。これにより、汝自らが洲渚となり、自らが帰処となる。自ら証得した法が洲渚となり、帰処となる。他に洲渚なく、他に帰処はない。

この言葉は仏が極めて精彩に富んで説かれたものだ。弟子たちに実証を重んじ、自ら検証した法に依り、実証なき外法を盲信・依存してはならないと教えている。いかなる法であれ、誰が説いた法であれ、全てを観察検証し、実証後に初めて信頼し依止すべきである。仏自身の説いた法でさえ、絶えず観察思量し、実証してこそ完全に依止できる。これを「人に依らず法に依れ」という。仏陀でさえ依る必要はなく、法と真理と事実に依らねばならない。検証を経ず盲従すれば智慧は開けない。

これに対し、末法の世の衆生は福薄く智慧なく、必ず人に依る。名声を得た者に無原則に縋り、帰属感を得ようとするが、法を弁別検証する力はなく、全く情執に陥る。某々の論を絶対真理と見做す者は目を覚ますべきだ。有名な人物の名声で法の正誤を判断するのは完全なる「人への依存」であり、正信ではない。正信とは仏陀の説く如く観察思量し、検証実証し、事実ならば真理として依るべきである。検証実証できぬなら、むやみに批判を口にせず、三宝を誹謗する悪業を造るべからず。

——生如法師の開示
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