『大宝積経』仏説入胎蔵会第十四原文:仏の曰く。(如来)は道を知る者なり。道を識る者なり。道を説く者なり。道を開く者なり。大いなる導師なり。如来。応正等覚。明行足。善逝。世間解。無上士。調御丈夫。天人師。仏世尊。世間の人は無知無信にして、常に諸根を以て奴僕と為す。ただ掌中のものを見て、大利を観ずることなし。易き事は修めず、難きものを恒に作す。難陀よ、しばらく止めよ。この如き智慧の境界は、汝今まさに肉眼の見る所を以て観察すべし。見る所のもの皆是れ虚妄なることを知れば、即ち解脱と名づく。難陀よ、汝我を信ずる莫れ。我が欲に随う莫れ。我が語に依る莫れ。我が相を観る莫れ。沙門の所有する見解に随う莫れ。沙門に恭敬を生ずる莫れ。この語を作す莫れ「沙門喬答摩は我が大師なり」と。しかれどもただ我が自証する所の法に於いて、独り静処に在りて、思量観察し、常に多く修習すべし。用心に随う所の法、即ち彼の法に於いて観想成就し、正念にして住す。自ら洲渚と為り、自ら帰処と為る。法を洲渚と為り、法を帰処と為る。別に洲渚無く、別に帰処無し。
釈:仏は説きたまう、如来は深く修むべき道を知る者、道を説く者、修道の道を開く者、世間の大導師・如来・応正等覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊なり。世間の人は無知にして信根もなく、常に六根の奴僕と作り、ただ掌中の小利を見るのみで大いなる利益を見ず、修道という易き事を修めず、生死の苦業という難き事を恒に造作す。
難陀よ、先ず止めて語る莫かれ。この如き智慧の境界は、汝今まさに肉眼の見る所の法を観察すべし。見る所の一切の法が皆虚妄なることを知れば、これを解脱と名づく。難陀よ、汝我の説く所を信ずる莫れ。我が思いに随順する莫れ。我が言葉に依る莫れ。我が相貌を観る莫れ。沙門の所有する見解に随順する莫れ。沙門に恭敬を生ずる莫れ。沙門喬答摩は我が大師なりと言う莫れ。しかれども必ず我が自証する所の法に於いて、独り静処に多く思量観察し、常に多く修習すべし。観ずる所の法に於いて、もし能く用心して修習せば、即ち観ずる所の法に観想成就す。自ら観想成就する法は即ち自証する所なり。この後は正念を以て法中に住す。この如くすれば、汝自ら洲渚と為り、自ら帰処と為る。自ら証得する所の法を洲渚と為り、帰処と為る。別に洲渚無く、別に帰処無し。
この言葉は仏が極めて精彩に説きたまう所なり。弟子たちに実証を要し、自ら証した法に依り、実証なき外法を盲信依頼すべからざることを教える。如何なる法なりとも、誰の説く法なりとも、皆取りて観察検証すべし。観察の後実証できて初めて信頼依止すべきなり。仏自らの説く法すらも、不断に観察思量し、実証の後完全に依止すべし。これを法に依り人に依らざると云う。仏陀すらも依るべからず、必ず法に依り真理に依り事実に依るべし。もし検証を経ずんば、即ち盲目に依るは智慧を開かず。これに比して末法の世の衆生は福薄く智無く、必ず人に依る。ただ名声ある者に無原則に縋り、帰属感を得んとし、法を弁別検択する能力無く、全く情執なり。某々の論を絶対真理と看做す者は醒むべきなり。名人の名声を以て法の正誤を判断するは全く人に依るなり。正信とは仏陀の説く所の如く観察思量し、検証実証すべし。もし事実ならば初めて真理として依るべく、検証実証できざれば、慎んで口を開き評す莫かれ。三宝を謗ずる悪業を造らんことを。
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