衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年03月14日    日曜日     第2 回の開示 合計3184回の開示

意識の思惟と意根の思量

問:1+1が2に等しいというのは、意識心の思考によって導き出されたものですか、それとも意根の思量によって得られた結論ですか?

答:1+1=2について、もしあなたが確信を持ち、理路整然と原理を理解しているなら、それは意根が導き出した結論です。もし1+1=2という結論は出せても、その原理が分からず、説明も曖昧でただ結論だけを知っているなら、それは意識が学んだ理論に基づいて導き出した結論であり、暗記に近いものです。そうでなければ、なぜ科学者が1+1がなぜ2になるのかを深く研究する必要があるのでしょうか。

私たちが小学校から大学までに学んだ知識のうち、実際に実証されたものはどれだけあるでしょうか?試験に合格し満点を取ったとしても、試験が問うのは知識の理解と暗記、知識量の掌握であって、実証を問うものはほとんどありません。実証に関わるのは実験室での内容です。社会に出て初めて実証が求められるため、多くの優等生が社会に適応できず、リズムについていけず、学びを実践に活かせないのです。

意識単独の思考分析で得られた結論は疑惑を断ち切れず、因縁に遭遇すれば疑惑が生じ、以前の結論を信じられなくなります。故に意識の思考分析による結論は不確固で、主人(意根)が疑問を抱き、主人が自説を主張するため、重要な局面では助手(意識)の結論を否定して採用しません。これが多くの意識で悟りを得た者が退転を繰り返す理由です。意識の思考分析は禅定の補助がなくても、散乱心の状態でも可能ですが、禅定が深まるほど意識の思考は精密で正確になり、理に適ったものになります。しかしどれほど精密正確でも、意根自身が導いた結論ではないため、親証とは呼べず、断徳がなく、受用もなく、生死を遮断できません。

意識の思考は往々にして意識自体が感知・観察でき、発見可能で、意根の思量に比べ表面的で粗いものです。意根の思量は深沈で隠微であり、発見されにくいが持続的に継続します。深い疑惑が生じた時のみ、意根は思量して疑惑を解決します。これが禅定に関わるもので、念々不断が禅定であり、疑惑の探究に定まることを定と言います。覚醒時も睡眠時も疑問が心にあり、解けなければ焦燥し、食事も睡眠もままならず、魂が抜けたようになります。意識が粗い状態では、意根の思量に気づかず、自心の事柄を発見できず、真に何を求め何を為すべきか分からず、自心を掌握できません。故に多くの人が意根を発見できず、理解も掌握も観察もできないのです。意根による思量には禅定が必須で、禅定が深ければ深いほど良く、他の雑事の干渉を排除し、六識も意根を妨げず、ただ意根に軽やかに細やかに了知させるべきで、意根に雑念を起こさせてはなりません。

——生如法師の開示
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