衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年03月14日    日曜日     第1 回の開示 合計3183回の開示

十二因縁を断ち切るための鍵となる環はどこにあるのか?

十二因縁は三世に通じ、無明・行・識は前世の支分、名色・六入・触・受・愛・取は現世の支分、有・生・老死は来世の支分である。この理を思惟する際、順観と逆観の二種の方法がある。順に十二因縁を観じれば、無明より起こる意根の行が六識の身口意行を生じ、来世の五陰における生老病死の苦を招くことを了知できる。逆に十二因縁を観ずるには二つの分派がある。一は名色を遡って前世の六識が造作した業行の所生であることを明らかにし、さらに意根の無明に至る。もう一つの分派は名色を遡って生死の源である阿頼耶識に至る。

第一の分派における逆因縁は老死より始めて前へ遡り、順次に生・有・取・愛・受・触・六入・名色・六識・行・無明に至る。現世において生死を断ずる要所はどこか。取・愛・受・触の四つの環節にある。名色と六入は必ず用いねばならず、現世において滅除することはできない。もし滅除せんとすれば自殺せねばならず、仮に自殺しても来世の生老病死を免れない。六識の業行は前世の造作が落とした種子であり、たとえ懺悔しても名色五陰を滅除できない。ゆえに来世の生死解脱を求めるならば、触・受・愛・取の四つの環節に重点を置いて修行せねばならない。後ろ三つの環節は触より流転して出たもので、直接または間接に触を縁として生ずる。故に触は極めて重要な環節である。

触とは六根が六塵に触れること、すなわち内六入が外六入に触れることを指す。その後六識が生じて了別し、さらに受が生じると貪瞋が現れ、六塵境界への執取もこれに続いて起こる。これらの業行は現世と来世の生老病死苦を招く。如何にして六塵への触を避け得るか。意根の攀縁性を減少・滅除せねばならない。意根が六塵を攀縁しなければ、もはや六塵に触れようとせず、触れなければその後何事も起こらず、心は清浄となる。故に要所は意根にある。如何にして意根に六塵を攀縁させないか。一に禅定を修め、二に理を明らかにし、六塵境界の無常と生滅性を観行する。意根が六塵境界に興味を失えば、自然に攀縁が減り、触れる回数と時間が減少し、次第に心が清浄となる。心が清浄になれば受なく、受なければ愛なく、愛なければ取らない。

衆生は無始劫来、六根が六塵に触れる習慣を有し、全てを降伏・除去するのは極めて困難である。時に生存の必要に迫られて触れざるを得ず、あるいは受動的に触れる場合もある。一旦触れた後は、受を減らすか、あるいは受けないようにせねばならない。触れても心無き状態を保てば受が生じず、受がなければ愛さず、愛さなければ取らない。少受または無受を実現するには禅定と観行の智慧が必要で、心が空となり相を離れ、境界を受けず、心が清浄であれば境界に執着しない。

もし境界を受けないことが困難で完全に達成できない場合、境界を感受する際に極力貪瞋を起こさず、受の無常と虚妄を思索し、境界の生滅と無常を観じれば、心は降伏し貪瞋は減少する。愛と受は密接に関連し、受の際に貪愛を生じないのは難しい。この時は必ず禅定が必要で、定力が強くなければ愛を降伏させ、断除することさえできない。愛を断除するには初禅以上の禅定が必須である。一切法の修行過程において禅定を離れることはできず、禅定が浅ければ煩悩を降伏できず、まして断除は叶わず、解脱の望みはない。

愛を降伏させる環節で失敗すれば、愛するものを取着することはほぼ避けられない。取着を滅するには三果の修行が円満した時、四果においてはもはや取着せず、一瞬の取着は避け難くとも、瞬時に智慧をもって断除する。もし常にこのような現象が起これば、解脱が不堅固な阿羅漢であり、臨終の無余涅槃前に不断に加行をなすことで、瞬時に滅度と涅槃を成就する。

総じて触・受・愛・取の四つの環節は全て重要である。前の環節を降伏・断除して初めて後の環節が生じない可能性がある。故に解脱の要所は触という環節にある。一切法の修行において環境は重要な要素である。諸仏菩薩が修行された時、寂静で人里離れた場所において人事の妨げがなければ、触れる機会が少なく功夫は速やかに進み、速やかに成道された。我々の修行も縁に随わざるを得ない状況下では、静修の因縁条件を多く作り、触れる因縁を極力減らすことが肝要である。賑やかな場所では道業を成就できない。

——生如法師の開示
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