仏法を学ぶ目的は五蘊の束縛から解脱し、様々な法の束縛から解脱するためでなければなりません。何が解脱するのか。第六識・第七識が解脱し、前七識が解脱するのです。前七識には五蘊の自我による束縛があり、我執があり、法の束縛があり、法執があるため、仏法とその理論を学ぶことは七識に五蘊の虚妄不実を完全に認識させ、執着の生死の過患を徹底的に理解させ、法の虚妄不実と法の束縛を完全に見極めさせ、それによって束縛から脱却し解脱を得させることにあります。もし仏法を学ぶことが単に理論知識を獲得し、意識が口先で誇示し自慢するためであり、博学をひけらかすためであるなら、これは心の誤用であり、別種の執着であって、依然として無明と束縛なのです。
多くの人々が如来蔵の法を学ぶ際、何を論じても如来蔵に結びつけるばかりで、七識五蘊がどのように修学すべきか、無明と煩悩の束縛を消除する道については全く触れず、如来蔵の清浄な心行と対照しながら七識五蘊の染汚心行を如何に懺悔し消除すべきかを知らず、如来蔵の清浄理と五陰七識を二つに分断し、如来蔵の理は口先だけのものとし、七識の心行は依然として旧態のまま、理論追求に熱中し、自心の無明と煩悩を深く観ることもなく、ましてや内心の染汚を如何に治理すべきかを思索しません。このような学法は修行とは無縁であり、慢心を増長し、多くを知ることを以て慢心を生じ人を見下し、結局さらに無明煩悩を増す結果となります。何のための修行でしょうか。
我々は皆明確に理解すべきです。如来蔵が如何なる状態であろうとも、七識の心行を代表するものではありません。如来蔵は皇帝であり、七識五蘊は依然として卑しい者、庶民、貧苦の人であって、互いに代替することはできません。ただ如来蔵の清浄性・無我性を学び、染汚を除去し、福德と智慧を獲得してこそ、一歩一歩昇進できるのです。いつ福德智慧品行が如来蔵と比肩するようになるか、その時に初めて如来蔵と同様に帝王となり、尊貴無比となるのです。自心を観ず、自心の煩悩を懺悔せず、自己を変えようとせず、身心に何の変化もなく、実際に戒定慧の修行に着手しない者は、全て修行とは呼べず、修道とは無縁です。学んだ理論が自己の重荷とならないだけでも幸いです。故に如来蔵を口にする傍らで貪瞋痴の煩悩が山積みになっていることに気付かぬままであることを慎むべきです。
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