衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年03月12日    金曜日     第2 回の開示 合計3177回の開示

仏法の理論を修学する目的とは何でしょうか

仏法を学ぶ目的は、五蘊の束縛から解脱し、様々な法の束縛から解脱するためでなければなりません。誰が解脱するのか?それは第六識・第七識の解脱であり、前七識の解脱です。前七識には五蘊の自我による束縛があり、我執があり、法の束縛があり、法執があるため、仏法の理論を学ぶことは七識に五蘊の虚妄不実を完全に認識させ、執着による生死の過患を悟らせ、法の虚妄不実と法の束縛を徹底的に見極めさせ、それによって束縛から脱却し解脱を得させるためです。もし仏法を学ぶことが単に理論的知識を獲得し、意識で口先だけの言葉を広め自慢するためであれば、それは誤った心の使い方であり、別の形の執着であり、依然として無明と束縛であります。

多くの人々が如来蔵の法を学びながら、何を話すにも如来蔵に結びつけるだけで、七識五蘊がどう修学すべきか、無明と煩悩の束縛を消除する方法には決して触れず、如来蔵の清浄な心行と対照しながら七識五蘊の汚れた心行を如何に懺悔し消除するかを知りません。如来蔵の清浄なる理と五蘊七識を二分し、如来蔵の理は口先だけのものとし、七識の心行は依然として旧態のまま、理論追求に熱中し、自心の無明と煩悩を内観することなく、ましてや内心の汚れを如何に治めるかを思索しません。このような学び方は修行とは無縁であり、慢心を増長させ、多くの知識を持つことで慢心を生じ他人を見下す結果、さらに無明煩悩を増すだけです。どうしてそのようなことをする必要があるのでしょうか。

私たちは皆明確に理解すべきです。如来蔵が如何なる状態であれ、七識の心行を代表するものではありません。如来蔵が皇帝であるなら、あなたの七識五蘊は依然として卑しい者、庶民、貧しい者であり、互いに代替できません。ただ如来蔵の清浄性と無我性を学び、汚れを除去し、福德と智慧を獲得してこそ、一歩ずつ昇華できるのです。いつ福德・智慧・品行が如来蔵と遜色ないようになった時、初めて如来蔵と同じく帝王となり、尊貴無比の存在となります。自心を観ずることも、自心の煩悩を懺悔することも、自己を変えようとせず、身心に何の変化もなく、実際に戒定慧の修行に着手しない者は、全て修行とは呼べず、修道とは無縁です。学んだ理論が自己の重荷とならないだけでも幸いです。どうか如来蔵を口にしながら、貪瞋痴の煩悩にまみれていることに気付かぬようなことがないようお願いします。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

どのように衆生に施食を行うのでしょうか

次の記事 次の記事

父子合集経講話(一四六)

ページのトップへ戻る