衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年03月11日    木曜日     第3 回の開示 合計3175回の開示

中有における業と業通

阿毘達磨倶舎論第九巻原文:此の中に有身あり。同類相見る。若し修得したる極めて浄き天眼あれば、亦能く見ることを得。諸の生得眼は、皆観ることを不能なり。極めて細かなるが故に。余の師説く、天の中に有る眼は、具足して能く五趣の中有を見ることを得、人・鬼・傍生・地獄の中有なり。四・三・二・一を見る。謂わく、自ら下を除き上を除く。一切の通の中に業通最も疾し。虚を陵ぎ自在なり。是を通義と謂う。通は業に由り得るを、業通と名づく。此の通の勢用速かなるが故に、疾しと名づく。中有は最も疾しき業通を得ること具足す。上は世尊に至るも、能く遮抑すること無し。業の勢力、最強盛なるが故に。 

釈:此の段は中有の身が極めて微細で見難く、同類のみが見え、極めて清浄な天眼を持つ衆生のみが能く見えることを説く。天人の天眼は他の五道衆生の中有を見ることができるが、天眼なき衆生は見ることができない。故に人が死んで中有の身にあれば、世俗の神通では見えず、ある者が推測して「この人は往生した」などと言うのは全て妄説である。これほど清浄な天眼を持つ者はおらず、中有の身を見ることも、ましてや死者が極楽浄土へ往生するのを見ることもできない。 

中有の存在においては業力が最も強盛で、業通が最大であり、神通は業通に敵わない。業力の前では神通は無用であり、諸仏といえども衆生の業通と業力を改変することはできない。例えば大目健連は神通力広大無辺であったが、死時には肉団子に打ち砕かれた。中有の業力は最大であり、仏も如何ともし難く、死者の意識は更に為す術がない。意識は微塵も手の打ちようがない。而して此の業力・業通とは、即ち意根に相応するものであり、意根の無明あるいは智慧力そのものである。故に修行が意根に至らなければ、意根を改変できず、一生を掛けた修行は水泡に帰す。意識が存在したとしても、意根の業力に微塵も抗うことはできない。意識によって悟りを証し心を明らかにすると説く人々は、此の時如何なる解釈を為すべきか?その口は壁に掛けておくべきではなかろうか。

——生如法師の開示
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