衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年03月11日    木曜日     第2 回の開示 合計3174回の開示

煩悩を断たずに菩提を証することはできるか

ある人は言うだろう。明心や初果を証得しても煩悩が断たれていないから身心に変化がなく、何も変わらないのは当然だと。しかし世間法においても、意根が真に何事かを知れば、異常なほど感動し、身体に大きな変化が現れ、心は激しく揺さぶられ、あるいは熱涙にむせび、あるいは身心が震え、あるいは厳粛な表情になるなどする。証果以前の三十七道品修行の過程においても、身心は徐々に変化し、以前とは大きく異なる。もしその違いが明らかになり、欲界五品惑を断じたなら、それは初果向である。もし身心に全く変化がなければ、それは如法に修行しておらず、修行の方向が誤っているか、あるいは全く精進していないか、広学多聞と情思意解に留まり、法理が真に心に入っていないことを示す。

俱舎論には、真に道を修め、理にかなった修行をすれば必ず煩悩惑を降伏し、次いで煩悩惑を断除すると説かれる。修道上の過程もそうであり、修道の結果もまたそうである。そうして初果向となり、再び初果となる。一縷の煩悩惑も断たず、身心に変化がなければ、依然として具縛の凡夫であり、煩悩惑に縛られ身動きが取れない。どうして菩提道に進み、身分を転換できようか。もし強引に身分を求めれば、名ばかりで実質がなく、偽物に過ぎない。

多くの人は、法を説くことができればすでに実証したと思い込んでいるが、事実はそうではない。実証を経ずに説法すれば、真の指導的意義を持たない。その道を自ら歩んでいなければ、他人に具体的な歩み方を指導できず、自心に貪瞋痴の煩悩が激しければ、他人の煩悩降伏や断除を指導することはできず、至る所に漏れがある。

一指禅の公案がある。師が他人の差し出した人差し指を見て即座に悟った時、小沙弥は「これが悟りか」と思った。師の不在時、小沙弥は問法者に対し同様に人差し指を立て「これが真如だ」と告げた。鸚鵡返しの模倣は実に見事だった。今人の悟りはこの小沙弥と変わらない。祖師方の作略に似た身振り手振りで、機鋒らしきものを示し、人を導くように見えるが、素人は騒ぎ、玄人は奥義を見る。これらの手法は外行人を欺くだけだ。あらゆる機鋒は八識和合であり、真妄が混在する。真妄を弁えず妄を真と見做せば、いかに身振りしても機鋒ではない。

阿難が仏涅槃後百年、小沙弥が生滅法を「水老鶴」と誤誦するのを聞き正したが、小沙弥が師に問うと「阿難の言うな。彼は耄碌した。我が教えの通りに誦せよ」と言った。小沙弥は相変わりの誦み方を続け、阿難は「仏涅槃わずか百年で法が誤伝される。衆生の愚かさよ」と嘆き、悲しみの余り直ちに涅槃に入り、法が徐々に破壊される惨状を見るに忍びなかった。その時代ですら仏法は変質し始めた。まして数千年後の今日においてをや。今の時代は聖人が巷に満ちる時代ではなく、多くの者が仏法修証を甚だしく誤解している。

今や大小乗の法は珍重すべきものではなく、稀有の法ではない。法を聞き思惟するだけで果位を得られ、戒定慧も要らず、六度万行も修する必要なく、戒を守り定を修する者は愚者とされる。今やあらゆる果位が容易に得られる。例えば夢幻観の十回向位さえ難事ではなく、如来蔵観行修証の法は口伝えだけで果を得られるとされる。衆生の愚痴と顛倒は最早言葉もないほどだ。

——生如法師の開示
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