衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年03月10日    水曜日     第1 回の開示 合計3170回の開示

禅定の修習と五蓋の除去は有漏法ですか

或る者は座禅による禅定修行と五蓋の除去が相を取る分別であり、外道と同じ修行法であると主張し、これらは不了義法を主修するものであるため真如三昧を発起できず、重大な漏れとして処理すべきであり、捨て去るべきであると言う。この見解は甚だ邪険であり、仏教と菩薩の教えに著しく背くもので、決して仏弟子の口にすべき言葉ではない。このような知見は、当人が修道の主要な内容を全く理解せず、何を如何に修すべきかを知らず、修道の次第と過程を知らず、修行の過渡期を弁えず、修行の結果と最終目標に直達できないことを示しており、結局何の道も得られず、空理空論を弄するに過ぎない。

もし禅定修行と五蓋の除去が相を取る分別であるならば、仏法の修学は更なる相取分別である。もし相を取る分別をしないならば、仏法を学ぶべきではなく、善法も修す必要がなく、四念処・三十七道品・菩薩の六波羅蜜及び戒定慧の三学を修してはならない。仏法を学ぶこと自体が相を取る分別である。そうでなければ何故気功やキリスト教を学ばないのか?何故教会堂で説法しないのか?何故終日眠らずに仕事をするのか?いったい誰が相を取る分別を免れようか?仏と如来蔵を除いては。しかし仏が衆生を度すことは相を取る分別ではないのか?声聞に四聖諦を説き、縁覚に十二因縁を説き、菩薩に六波羅蜜万行を説くことは相を取る分別ではないのか?初機の衆生に唯識を説かないことは相を取る分別ではないのか?仏が僧団の指導権を提婆達多に委ねなかったことは相を取る分別ではないのか?仏が王位と妻子を捨て出家修道したことは相を取る分別ではないのか?山中で一日に一麻一麦を食することは相を取る分別ではないのか?鹿野苑で五比丘を度したことは相を取る分別ではないのか? 如来蔵を除けば、衆生も仏も相を取る分別を免れない。もし相を取る分別が全て漏れであるならば、細菌の相取分別が最も微細で、ほとんど分別できず、多くの相を取れない(極度の愚痴による)ならば、人間の漏れが細菌より更に多いと言えるのか?種々の取舍は即ち相を取る分別であり、世俗界と全ての仏国土において取舍を離れることはできない。取舍をしない者はいない。諸仏菩薩も含めて。ただ如何に取舍すべきか、何を取るか捨てるかの問題であり、善く取舍分別することは大いなる智慧である。智慧がなければ正しく取舍分別できない。

真如三昧を発起するには、一には純粋に禅定の性質を有する三昧、一には禅定に般若の智慧を加えた真如三昧がある。禅定を離れて微塵ほどの三昧も存在しない。

座禅による禅定修行と五蓋の除去は仏の説かれた修道の必修法である。大小乗の学人を問わずこれを越えて修さずにはおけぬ。禅定を修さずして道を証することなく、五蓋を除かずして無明煩悩を断じえない。禅定を修さず五蓋を除かぬことを提唱するのは、仏と対立し仏法に背こうとするのか、それとも自らを仏より高明で修道に通じていると考えるのか?永遠に散乱心と浅薄な思惟推理を抱え、五蓋と一切の煩悩無明を具足したまま成仏しようとするのか?もし仏が定められた必修の法が漏れある法であるならば、何の法に漏れなかろうか?如来蔵に漏れはないが、あなたの七識と五陰は如来蔵か?如来蔵が五陰七識を代表できるか?七識と五陰の漏れを如何に処理するのか?浅薄な散乱心による思惟分別でこれほど多くの煩悩の漏れを処理できようか?末法の世において世俗界と仏教界に怪人怪事が多いのは、人の想像力を超えている。それでもなお多くの人々が追従するのは何を求めてか。光陰矢の如く、瞬く間に過ぎ去る。やはり人に依らず法に依るべきである。

——生如法師の開示
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