衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年03月09日    火曜日     第1開示 合計3167開示

現量・比量・非量の了別に運用される心所

三種の了別のうち、五十一个心所法(五十一心所法)のどれが使われるとは限らず、具体的な状況は具体的に分析する必要があります。情景が異なれば、用いられる心所法も異なり、異なる人は种种の理由により(さまざまな理由により)、用いる心所法に差があります。たとえ同一人であっても、時間と場面が異なれば、身体状態や心理状態が異なれば、知識水準が異なれば、智慧の水準が異なれば、運用される心所法も同じではありません。五遍行心所法はすべて用いられますが、五別境心所法はすべて用いられるとは限らず、善十一心所法は必ずしも現れるとは限らず、根本煩悩および大・中・小随煩悩の心所法も必ず現れるとは限らず、状況次第です。 

現量の了別には十分なデータを収集する必要があり、それには非常に深い智慧が必要です。勝解心所法が強くなければならず、定心所法が現前しなければならず、念心所法が具足していなければならず、心心念念に無間であるようにしなければなりません。比量の了別は相対的に智慧が浅く、必ず比較を通さなければならず、比較しなければ分からず、相対する縁がなければ着手するところがありません。一方、現量の了別は比較することなく直接に知ることができ、あるいは当下(その場)で知ることができ、根がいくらか鋭いのです。非量の了別は、実在の証拠がどうしても見つからず、十分なデータもなく、比較の対象もない場合に、やむを得ず想像・推測・推理などの手段を用いるもので、用いる方法が比較的多く、多く用いるほど智慧が有限であること、勝解力が弱いことを示し、もちろん定力も念力も不足しており、直接に判断を下すことができず、直接に結論を導き出すことができないのです。 

比量とは、ある人の能力が一つのことを単独で成し遂げるには足りず、やむを得ず人に助けを求めてようやく成し遂げられるようなものです。非量とは、助けてくれる人さえ見つからず、やむを得ず一人であれこれと手を尽くし、偶然うまくいくようなもので、たとえうまくいったとしても、智慧が不足しており、現量には属しません。まるで、他人が今どんな服を着ているのが見えず、対照となるものもないので、やむを得ず想像し推測するようなもので、たとえ当たったとしても、直接に見たのではありません。

ある人は智慧が不足していて、他人を導いて一歩一歩修証し現量で見道を求める方法を知らないのに、なお導こうとして、排除法を用います。たとえばこの地に城外の他の五つの地域へ通じる五本の道があり、そのうち一本だけが北京に通じているとします。その人は人を導いて正しく択一させる方法を知らないので、排除法を用い、まず一本目の道を指します。相手はためらいながら指し示しては確信できず、その人の眼差しの暗示を見て違うと分かると、次に二本目の道を選び、相手は再びその人の顔色を見てこれも違うと感じ、そこで二本目の道を排除します。このようにして四本の道をすべて否決し、最後の一本の道だけが残ると、相手は「この道だ、北京に通じるのはこの道だ」と言い、そこでその人は言います。「これは君が言ったのであって、私が教えたのではない。おめでとう、見道したね」と。皆さん、言ってみてください。これで見道したと言えるのでしょうか? このような見道からどんな智慧が生まれてくるというのでしょうか? 人を陥れ、人の子弟を誤らせる者とは、まさにこの種の人間であり、まさにその通り、容赦なくあなたを騙すのです。相手も喜々として騙され、なんと愚痴な一組であることか!

——生如法師の開示
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