衆生の間には互いに薫染する作用があり、どのような人と一緒にいるかによって、知らず知らずのうちにその人の習気・性格・性質・善悪の心行などに染まっていきます。もし人が犬を飼い、常に犬と一緒にいるならば、犬には犬の習性があり、人には人の習性があります。長い時間をかけて犬の眼差しや動作、飲食や起居の習慣を見続けると、知らぬ間に犬の習性や心性に染まり、自分では気づかないうちに、容貌さえも非常に微妙に変化していく可能性があります。しかし犬はより人間に染まりやすく、人の力が犬を上回るため、相互の薫染において犬はより多く重く影響を受けます。そのため犬の習性は人に近づき、来世では人身を得やすくなり、人身を得た後は人の心をよく理解し、聡明で機転が利くようになります。
犬が人に薫染されるのはもちろん良いことですが、人が犬に薫染されたらどうなるでしょうか。類は友を呼ぶと言いますが、人が常に犬を見ていると、容貌も静かに変化していき、気づきにくいものです。今生では変わらないか少ししか変わらなくても、来世で薫染の種が成熟する時には変化が現れます。もし犬と一緒にいることに慣れ、深い感情を持ち非常に親密な関係になると、中有の身の段階で犬の境界が現れ、知らず知らずのうちに犬について行き、犬の胎内に転生してしまうのです。
例えば、常に吃音のある人と一緒にいると、その人が滑らかに話せずにどもる様子を最初は気にしなくても、長い時間をかけると言葉に障害が出てきます。時間が経つほど障害は大きくなり、これは徐々に薫染されていく過程です。薫染される方面には容貌・話し方・口調・習慣、飲食の習慣や起居の仕方まで含まれます。
私たちが今いる修行の段階では非常に薫染されやすく、悪法は善法よりも染まりやすいものです。なぜなら私たちの心は煩悩が善をはるかに上回り、煩悩には慣れていても善には慣れておらず、善法には抵抗を感じる一方で悪法は容易に受け入れてしまうからです。例えば人々の中で他人の是非を言う場面に出会うと興味を持ちやすく、自らもその是非争いに加わってしまいます。他人の善行を称賛する場面に出会っても、それに従おうとせず、往々にして口を閉ざしてしまいます。自分と関係が良く利用価値のある人は例外ですが、井戸を掘る者には石を投げる者は多く、雪の中に炭を送る者は稀です。ですから修行によって自分を変えようとするなら、善人に近づき、煩悩の重い人から離れ、是非を好む人や場所を避けるべきです。そうすれば心は次第に善に近づき、悪から遠ざかり、煩悩を降伏させることができ、煩悩業を造りにくくなり、悪業の種を残さず、来世は軽やかで煩悩の障りがなくなります。
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