衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年03月08日    月曜日     第1 回の開示 合計3165回の開示

外道たちはなぜ初めて仏の説法を聞いてすぐに証果、さらには四果を得たのか

外道たちは四禅八定を修得し、様々な程度の思惑の煩悩を降伏・断除しましたが、四聖諦の理を観行する智慧だけが欠けており、見道の条件を満たす状態でした。俗に言う「万事整って東風を待つのみ」です。この東風とは見道の因縁を指し、一旦その因縁が現れれば直ちに見道が叶います。その因縁とは仏陀が四聖諦の理を説くことです。初果の条件を備えれば初果を証得し、二果の条件を備えれば二果を証得し、三果の条件を備えれば三果を証得し、四果の条件を備えれば四果を証得します。故に仏の説法を聞く者それぞれが証得する果位は異なり、その差は見道の条件の違いにあります。

見道は七つ目の肉まんを食べるようなものです。外道たちは既に六つの肉まんを食べ終え、七八分目の満腹状態で完全な満腹には至っていませんでした。仏陀が四聖諦の理を解説するのを聞き、七つ目の肉まんを食べて一気に満腹に至ったのです。前の六つの肉まんは基礎であり、胃の下地を作り、最後の一つが加わることで胃を満たしました。

他人の最終結果だけを見るのではなく、その修行の苦労や注いだ汗の量を見るべきです。もし彼らが多大な代償を払わず、精勤して四禅八定を修得していなければ、六つの肉まんという基礎がなく、更に六つの肉まんを与えられたとしても満腹(見道)することはできなかったでしょう。仏と弟子の問答の間に、弟子たちが瞬時に見道したという話があります。わずか数分の出来事で、非常に容易く、それほどの苦労や面倒はなかったと言う人もいます。しかし、この数分間の見道の功徳は、仏弟子たちの無量の善根福徳が集積した結果であり、それぞれがどれほどの時間をかけて六つの肉まんを食べ、どれほどの苦労をし、前世と現世でどれほどの代償を払ったかを理解すべきです。

多くの人が競技場で一度の試合で金メダルを獲得する選手を羨み、国際大会や国家レベルの金メダル獲得者を「なんて幸運なのだろう」と考えます。しかし彼らが積年累月の努力を重ね、どれほどの汗と涙を流し、どれほどの休息時間を犠牲にし、どれほどの体力的代償を払い、時には生命や健康を危険に晒し、どれほどの屈辱を受けながら、ようやく競技場で一挙に金メダルを勝ち取ったかを見ようとしません。世間も出世間も、それほど容易なことでしょうか?果を証することが白菜を食べるように簡単だというのでしょうか?無量劫の生死流転、山のように積もり絡みついた悪業が、数分数時間でどれほどの生死の業障を破り、三悪道の業を滅除できるというのでしょうか?そんなことはありえません。夢にもそんな良いことは見られないでしょう。もし可能なら、どうして無辺無際の生死の衆生が存在し、無辺無際の仏が存在しないのでしょうか?

——生如法師の開示
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