原文:若し先に已に欲界の九品を離れ、或いは先に初禅の一品を断じ、乃至ことごとく無所有処を離る。此の位に至りて、第三果向と名づく。第三果に趣くが故なり。第三果とは、即ち不還果を謂う。数は前に解釈せしに准ず。
釈:先の修道において既に欲界の九品煩悩惑を離れていた場合、あるいは先に色界初禅天の一品煩悩惑を断じ、さらに無色界の無所有処天の煩悩惑を全て離れた者がこの位に至れば、三果向となり三果へ趣く。第三果は不還果であり、再び人間界に戻って修道することなく五不還天において無余涅槃を証する。三果の解脱智慧には多くの差異があり、後述される。
今重要なのは、三果向が欲界の全ての煩悩惑を離れ、更に色界初禅の第一品煩悩惑をも断じた状態である点だ。欲界の全煩悩惑を離れるには、欲界の未到地定のみでは不十分で、色界の初禅定、最高では無色界の無所有処定が必要となる。
何故欲界思惑を断じただけで三果向であり三果ではないのか。煩悩は先ず断じ、その遮障が無くなって初めて五蘊を観察し、より深い見道の智慧が生起する。三果見道を以て初めて三果を証得する。二果も同様に、二果向は未到地定で八品思惑を断じ煩悩遮障を除き、更に五蘊を観察して二果の見道智慧を生じ証果する。初果もまた、凡夫位の未到地定で五品思惑を断じ粗悪な煩悩遮障を除いた後、五蘊の苦空無常無我を観行し、最初の我見断ちの智慧を得て初果を証する。
この見道基準で衡量する時、娑婆世界に真の小乗見道者は果たして幾人いるか。小乗に真の見道が無ければ五蘊は滅せず、如何にして更高なる大乗見道が在り得ようか。巷に溢れるは偽見道・虚見道ばかりで、自称他称の果位とは何の果か。後世の果報を思えば冷汗三斗の思いがする。何故未だに恐れを知らぬ者が多いのか。ただ愚痴なるが故、棺を見ても涙せず、棺に臥す時も涙せず、只三悪道にて血を流すのみ。
原文:次に修道に依り、道類智時に衆聖の差別を建立する。頌に曰く、第十六心に至り、三向に随って果に住するを信解と名づく。見至も亦鈍利の別に由る。論じて曰く、即ち前の随信行・随法行の者、第十六道類智心に至りて名けて果に住す。もはや向と名づけず。前の三向に随って今三果に住す。謂わく、前は預流向、今は預流果に住す。前は一來向、今は一來果に住す。前は不還向、今は不還果に住す。阿羅漢果には必ず初得無し。見道には修惑を断ずる容れ無きが故なり。
釈:三果向の後、再び修道によって道類智が生起する時、聖者たちの位階差別が現れる。第十六心に至ると、三果向の断徳に随って三果位に住し、随信行の信解者と呼ばれる。随法行の見至者も根の鈍利によって差別が生じる。前述の随信行と随法行の修行者が第十六道類智に至ると、三果の住果となり向の名称を捨てる。前の預流向・一來向・不還向がそれぞれ預流果・一來果・不還果に住する。阿羅漢果には中間の向位が存在せず、直接証果する。阿羅漢見道時には既に修断すべき惑が無く、前三果の修断を完成した者が第四果無学を証得する。前三果は有学有修有断、第四果は無学無修無断である。
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