俱舎論原文:**若し先に已に欲界の六品、或いは七・八品を断ぜば、此の位に至るを第二果向と名づく。第二果に趣くが故なり。第二果とは、一来果を謂う。遍く果を得る中に、此れ第二なるが故なり。**
釈:もし先に欲界の六品の思惑、あるいは七・八品の思惑を断じた場合、この位に修め至れば二果向となる。第二果に向かうためである。第二果とは一来果を指す。人間界と天界に各一度往復した後、余すところなく涅槃に入る。一切の応得の果位の中で、一来果は第二位に位置するため、二果と呼ばれる。
欲界の六・七・八品の三品の思惑は、前五品の思惑よりさらに微細で、断じ難い。一旦断じれば、断徳は高まり、果位は当然ながら五品を断じた初果向や初果を超える。欲界の九品の煩悩思惑は、全て欲界の法に関わるものであり、欲界の色・声・香・味・触・法への貪瞋痴、欲界の飲食・衣具・生活資具への貪瞋痴、男女の欲への貪瞋痴である。第一品の下下品の煩悩惑は最も粗重で混濁し、過失が最も重く、除去すべき最優先対象である。二品はこれに次ぎ、三品はさらに次ぐ。五品まで断じた段階で初果向となり、凡夫と初果の間に位置し、凡夫に属するため三悪道の流転を免れず、初果位に至って初めて三悪道の苦を滅する。
欲界の五品煩悩惑を断じるには、戒を保ち定を修め、欲界定が生起すれば五品思惑を降伏・断除する。この煩悩惑を断じた後も戒定を継続し、観行の智慧を生起させ、五陰の苦・空・無常・無我を証得すれば、三昧が現前し法眼浄を得て初果に至る。ここで禅定が鍵となる。欲界の未到地定がなければ、一切の煩悩惑は降伏せず、初果向も得られない。未到地定がなぜ五品思惑を断じるのか。定は心を安定させ、まず身を定め、身が定まって初めて心が続いて定まる。心が定まれば心が制御され、色声香味触法への執着が減り、煩悩は自然に断たれる。二果向と二果が断じる煩悩惑は、初果向・初果のそれより微細であるが、依然として欲界の煩悩惑に属し、残り一品で欲界煩悩を断尽する。未到地定があれば断じ得、色界定・無色界定ではさらに容易に断じられる。
「証果や明心に禅定は不要で煩悩を断じる必要もなく、初果の煩悩は凡夫と全く同じ」との主張は、発言者が真に修道の段階を経ていないことを示し、自心が凡夫の煩悩と相応しているため、その「証明」や「明心」は極めて疑わしい。禅定なき者は当然ながら禅定の功徳を知らず、何ら煩悩を断じず、煩悩は凡夫と同様である。しかし実際は異なり、禅定には断徳・福徳・功徳があり、修道の最重要鍵である。禅定なき場合、我見を断つ智慧は生起せず、意識の理解は決定的作用を持たない。意根の智慧こそが決定的であり、無明煩悩の存否、来世の趣向、解脱の可否を決定する。
初果を証することは脱胎換骨に相当する。意根が主心骨であり、どのような骨かが胎を決める。意根の無明煩悩が断たれなければ、骨が変わらず凡夫の胎を脱せず、中有において入る胎は意根の骨によって決定される。なぜ禅定が意根を脱胎換骨させるのか。禅定は六識を降伏させ、六識の活動を緩慢にし、意根の六識への支配・調節を減少させる。攀縁心が弱まり、心が法義に安住する時間が増え、法義を吸収・消化する能力が向上し、法義への考察が専注されることで智慧が生起し、煩悩が断たれ、部分的あるいは完全な解脱を得る。禅定なき場合、六識の六塵への攀縁が絶えず、意根の指揮も止まず、法義に安住できず智慧は生起せず、煩悩は断たれず解脱の望みはない。
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