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日常法話

2021年03月07日    日曜日     第1開示 合計3162開示

二果所応断の煩悩

倶舎論原文:若先已断。欲界六品。或七八品。至此位中名第二果向。趣第二果故。第二果者。谓一来果。遍得果中。此第二故。

解釈:もし先にすでに欲界六品の思惑を断除していたか、あるいは七八品の思惑を断除していたならば、この位に至って第二果向と名づけられます。第二果に趣向するからです。第二果とは一來果のことであり、あらゆる得るべき果の中で、これが第二番目にあたるからです。一來果は人間と天上をそれぞれ一回ずつ往復すれば、無余涅槃に至ります。あらゆる得るべき果位の中で、一來果は第二位に位置するので、二果と呼ばれるのです。

欲界の六・七・八の三品の思惑は、前の五品の思惑よりも深く細かく、断るのがより困難です。いったん修断すれば、断徳はより高くなり、果位は当然、五品の断徳の初果向および初果よりも高くなります。欲界の九品の煩悩思惑は、いずれも欲界の法に関わるものであり、欲界の色声香味触法に対する貪瞋痴の煩悩、欲界の飲食・衣具・生活資具に対する貪瞋痴の煩悩、男女の欲に対する貪瞋痴の煩悩です。第一品の下下品の煩悩惑は、最も粗重で、最も濁っており、最も低劣で、過失が最も重く、最も有すべきでなく、最も除去すべきものです。二品がそれに次ぎ、三品はさらにそれに次ぎ、五品に至るまで修断すれば、それは初果向となり、凡夫と初果の間に位置し、凡夫に属するので、三悪道の流転を免れません。初果位に達して初めて、三悪道流転の苦を滅除することができるのです。

欲界の五品の煩悩惑を断除したいならば、持戒修定をしなければなりません。欲界定が生起すれば、五品の思惑煩悩を降伏し断除することができます。この煩悩惑を断除した後も引き続き持戒修定し、観行 (vipaśyanā-caryā) の智慧を生起させ、五陰 (pañca-skandha) が苦・空・無常・無我であることを証すれば、三昧 (samādhi) が現れ、法眼浄を得て、初果を得ます。その中で禅定が鍵となります。もし欲界の未到地定 (anāgamya-samādhi) がなければ、いかなる煩悩惑も降伏・断除できず、初果向も得られません。未到地定はなぜ五品の思惑を断除できるのでしょうか。定とは心を定めるものであり、まず身を定め、身が定まって初めて、心がそれに続いて定まるからです。心が定まれば、心は伏せられ、色声香味触法への趣向が少なくなり、煩悩は自然に断たれます。二果向と二果が断つ煩悩惑は、初果向と初果が断つ煩悩惑よりもいくらか細かく深いのですが、それでもなお欲界の煩悩惑に属し、あと一品で欲界の煩悩惑を断じ尽くすところです。欲界の未到地定があれば断除でき、色界定や無色界定ならばさらに容易に断除できます。

証果と明心には禅定は必要なく、煩悩を断つ必要もなく、しかも初果の煩悩は凡夫と完全に同じだと言う人がいます。こうした言論はまさに、この人が真に修道の段階を経験したことがないことを示しており、自分の心は間違いなく凡夫の煩悩と相応しているのでしょう。そのいわゆる証明と明心は、きわめて疑わしいものとなります。禅定のない人は、当然ながら禅定の功徳受用を知らず、当然ながらいかなる煩悩も断除することはできず、その煩悩は当然、凡夫と同じで区別がありません。しかし実際にはそうではありません。禅定には断徳があり、福德と功徳があり、修道における最も重要な鍵となる環節であり、助けとなるものです。禅定という鍵となる環節がなければ、断我見 (ahaṃkāra-mamakāra-parityāga) の智慧は生起せず、意識の理解は決定的な働きをしません。意根の智慧こそが決定的なものであり、無明煩悩の存否を決定し、後世への趣向を決定し、解脱するか否かを決定するのです。

初果を証することは脱胎換骨に相当します。意根こそが主心骨であり、どんな骨ならどんな胎であるかが決まります。意根の無明煩悩が断たれなければ、骨が変わらないので凡夫の胎から脱することはできず、中陰身でどんな胎に入るかは意根という骨によって決定されます。なぜ禅定は意根を脱胎換骨させることができるのでしょうか。禅定は六識を降伏させ、六識の動きが少なく遅くなるため、意根による六識への支配・調節が自然に減り、攀縁心が弱まり、その心は多くを法義の上に住することができ、法義を吸収・消化する能力が増強され、法義への思量 (manasikāra/manana) がより専注となり、次第に法義に融通し、智慧が生起し、煩悩が断除され、部分的な解脱あるいは全部の解脱を得るからです。もし禅定がなければ、六識の六塵への攀縁が絶えず、意根による六識への指揮も絶えることがなく、法義の上に住することができず、智慧は生起せず、煩悩は断たれず、解脱は望めません。

——生如法師の開示
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